今年書いたものの三度目の呈示。謎めいた自覚だ。が、読むほどによくわかる。
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- 自分に向って
今年書いたものだが、数年前に書いたような気がする。距離感は内密であることを妨げないどころか、遙かに感じるものこそ親密である。
追憶の深さはそういうものだろう。最近書いたものでもそう感じることがある。 何をいま言っているのかじぶんでもつかめない。ただ肯定的な安心を感じる。
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- 自分に向って
繰りかえし言うが、運命のほうがぼくよりぼくを知っているらしい。
ぼくはぼくの感覚と意識で自由にやってきた。これからもそうだろう、運命のなかで。 ぼくの自由はますます、運命と溶け合っているのではないかと感じる。 これは運命を愛することではない。そういう擬人化は運命にはできない。 何と言えばよいのか言葉がみつからない。
運命は、ぼくがそこに根ざして生きる包括者のようなものだ。対象や形像として態度をとるのではない。ぼくは運命を知らないのだから。
運命のなかでぼくは生きる。運命に従うのではない。知らないものに従いようがない。ぼくが充実した自由から意志するとき、運命から意志しているのだと思う。
ヤスパースとはべつに、ぼく独自に、包括者としての運命と呼んでおく。そういうものがなければ人間は創造的に安定しないのではあるまいか。
自由の哲学としてのヤスパース哲学は、必然的に包括者を思惟するだろう。それがなければ彼の「歴史性の自由」もないだろうから。 彼の「超越者」は 「包括者」であらざるをえない。そうでなければ、自由を服従させる神となってしまう。 ヤスパースの独自性は、神と呼ばれるものを「包括者」と思念するようになったところに現われている。