ヘルダーリンの生涯におけるフィヒテとヘルダーリンの思想上の相克の問題は、ぼくが見いだした高田博厚とガブリエル・マルセルにおける主体性と間主体性の問題に類似している。あまりに類似しているので驚くが、無論、高田さんは美の探求者であり、演繹的な哲学者フィヒテではないだろう。しかし「神」への至り方で、彫刻家・高田さんと劇作家・マルセルとは、フィヒテとヘルダーリンとの場合と類似の相異が認められるのは確かであり、人間精神の運動にくり返し現われる問題であることを、ここに記しておこうと思う。 

 

主体性と間主体性は、人間において相補し合うものであり、人間をして根源的な運動に留め置く両極である、とぼくは感得している。