初再呈示
初年に書いた文がぼくを救い支えてくれる。
テーマ:自分に向って
人の平等について。私のは覚書である。日本においては多分一般的でないことをこれについて述べねばならない。何が人の心を安らかならしめないか、自分に安住させないか、自己肯定感を奪うか。すべて、人との比較意識(あらゆる次元で)である。これを克服するのは一つしかないと私は思っている。既に言った、祈りと美感動であると。これを或る意味で繰り返す。各人が各々の生活の中で、己れの「神」と向き合う内的習慣を深めること、これのみである。これのみが、肯定的に己れの孤独を深めることであり、真の精神的独立はここにしかない。だから人間の本当の独立は、各々の神の意識なしにはない。「神」は、いかなる宗教にもかかわりなく、必要なのである。宗教に属している人は、無宗教でありながら神を語ることをかならず否定するであろう。私にも経験がある。後になって、ははあ、自分が宗教所属だったからあんなに断定的疑義の言い方をしたのだな、と気づいた。そんな人は、そう推測して放っておけ。人の心を汚す者だ。「人間は、己れの内で神の意識が生成するに応じて、自分自身となる」、とヤスパースは哲学者として言った。高田博厚は、ベルクソンの臨終期のカトリック帰依の言葉にさえ、ベルクソンの独立的思索の一貫と成就を看取して感動するほど、「神」の独自の思索と感得に生きた。われわれもこれに倣おう。
この平等は与えられるものではない。「自分」を見出す時そこにある、創造的なものであり、自己集中・自己沈潜の先に開ける境域のことである。〈平等〉観念そのものの、計量的なものから非(超)計量的なものへの突破である。ここにのみ自己尊厳、〈自分の自分自身への同意〉がある。人間の尊厳をそれ以外の仕方で見出すことは不可能である。万人がそのようにして自己肯定を見出し得る存在であること、私が人の平等と言うものはこれである。
私は例えばマルセルの言っているようなことを自分の経路で自分の言葉で言ったのであろう。それでよい。私が何より語っているのは私自身にたいしてである。そのほかの人々にはそれを通して間接的にしか語っていない。自分に向って以外には私はいかなる創造もしていない。そのような私にとってその先にあるのは私の神以外の何であるというのか。このようにして私は神を必然的に探求している。自分を求める態度が本物であれば必然的にそうなる。自分を求める先にのみ神はある。これが真の神の探求のありかたであることが解ったら、此の世に〈神の為の争い〉など無いであろう!
すべての問題は神と創造主との混同から生じているであろう。このことをはっきり言うのは私が史上はじめてかも知れない。高田先生は無言でこれを解っていたであろう。私がはっきり言うのは、集合容喙現象(私は、この原因力が私にした事を、その品性共々絶対許さない。「今」も改めていないから徹底的に許さない)を経験しているからである。(哲学者でこの経験をしている者はルソーのみか?) しかも私は哲学者に収まるつもりはない。愛自者芸術者として創造的自己探求に生きる。残されている可能性の問題など、真に生きる者は顧慮しない。常にすべてが可能であるように生きる。
高田先生とマルティネの交流について勉強して書こうと思う。勉強しようという意欲が或る事を契機にして湧いてきた。行為の種を蒔くためにここで言っておこう。
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音楽(クラシック)に二種あると感じる。自分に連れ戻す音楽と、自分から引き離して魔的(悪魔ではない)なものに連れ込む音楽と。音楽インスピレーションの根源が違うようだ。自己の内部からか、外部からか、という問題だ。前者は西欧の純粋音楽、後者は日本の楽曲に多いと感じる。内的な耳を傾ける方向が違う。しかしたとえばシベリウスはどちらの方向か。これを書いておくのもひとつの種蒔きだ。(こういう方向性の相違は意識的に話題にされたことはないのではないか。私の言うのは両方向へのベクトル性の程度であって、いずれかに区分することではない。)音楽は人間の精神、魂にとって何なのか。造形や文学ではこの区分はわりと明瞭であるように思う。音楽は一見この点混沌としているようだ。