「十年一昔」と云うが、これは、たった十年でも昔になるんだよ、という、意識教育のための言葉なのだろうか。自己が目覚めるほど、時間という観念が意味を失ってくる。自己は、無時間的な本質を持っている。だから、過去の行為にも責任を負う主体であるのだ。十年前に現役だったひとが、十年経ったから昔のひとだ、という言葉には、受け入れ難い不自然さ、人為性がある。そこで、思惟の一歩をすすめ、この視点を延ばして、幽霊の時間視点というものが理解できそうに思われる。よく、戦争中に亡くなった人の霊が、いまでも、亡くなったその場処に現われる、という話を聞くが、幽霊からすれば、じぶんの自己(意識)はそのままで、周囲がいろいろ変化するだけであり、そこに所謂時間的な遠近感覚は無いにちがいない。十年一昔どころか、七十年現在なのだ。関心の無いものは「過去」になるだろうが、関心を失うわけにはゆかないものは、いつまで経っても「現在」なのである。ここには、経験する出来事の、それへの関心の度合いに基づく取捨選択がある。われわれが生活・人生でやっていることと同じである。最近のものであっても、どうでもいい変化は、離れるわけにはゆかない昔の記憶よりも、「過去」である。記憶とは、過去性を測定する働きではなく、現在性を維持する働きだろう。こういう反省も現象学ではなかろうか。