ただピアノを弾くことは、ひとりスポーツのようなものであって、人間の尊厳にはつながらない。 尊厳は、かんがえることに存する。音楽演奏は、かんがえることに貢献するかぎりにおいて、意味がある。
パイプ・オルグを弾く森有正は、思想でしか満足しなかった。彫刻家高田博厚は第一義的に思索家だった。当然のことである。 思想あっての芸術である。 人間は思想(イデー)でしか充実しない。じぶんでピアノや素描をしてはじめて解ることである。これを納得するために、じぶんで実践して良かった。
ここで言っている思想は、魂の想念である。
思想とは、読んだり書いたり構想したりすることではない。魂の記憶に傾聴する反省思念である。人間はそこでしか落ち着かない。
上手に弾けるくらいは意味はない。意識が自分の魂から逸れるなら やらないほうがよい。絵でもそうである。
きみの演奏は 魂を想起させる。 こういう演奏をだれが為しえようか。思想家も崇拝する聖セシルだ。きみは、魂の思想家にとっても謎なのだ。