親や教師が子供を教育することは、それ自体一般に無理がある。人間を教育することができる人間というものは、稀である。結果、教育の現状は実際には欺瞞と齟齬なのである。子供が経験するのは、実際には人間社会の縮図である。社会に染められていない分、子供は大人ほど馬鹿ではない。その教育の場で〈伸びて〉ゆくのは、馬鹿になることに秀でている子供である。ぼくは誇張しているのではない。進学校などで〈伸びる〉のは、そういう馬鹿である。これはもっとよく認識されるべきである。知性が無い者、目覚めていない者ほど、受動的な勉強に集中できて〈伸びる〉。だが馬鹿に変わりはない。進学校で大変な目に遭ったぼくの経験から、確信をもって言える。あの連中、馬鹿である。すこしもじぶんでかんがえるということをしていない。そういう者のほうが学習には都合がよいのである。高校で原理からかんがえて納得してゆく勉強をしようとしたら、大変である。ところがあの連中は、生まれてからそういう勉強はしたことがない連中なので(それほどの知性にははじめから目覚めていないので)、同様に、はじめからそういう知性とは無縁の学校教師や学習内容にはすこぶる適応性がある。まず、日本の、とくに高等学校の学習様態は、ひどいものだといわざるをえない。それを隠蔽して、試験のための勉強をする。学問などは不可能で、知性放棄を強要する処だと、ぼくは確信をもって言える。それがぼくの経験し苦しんだ現実だったからである。ぼくは、基礎が不明瞭なのに要領よくやることはまったくできない人間で、しかも自意識の煉獄に苦しんでいた。ぼくが第一級の知性に最初から目覚めていた人間で、馬鹿でなさすぎたからである。ぼくがどん底だったのではなく、まったく反対に、学校そのものの現状がどん底だったのである。だから、其処に強いられたぼくもどん底だった。知性は凛としていた。徹底的に、意識のあり方が、ほかの者らとは違っていた。生徒も教師も馬鹿ななかで、高校から一刻も早く脱出することのみをかんがえていた。ほんとうの学問をしたかったからである。馬鹿な教師が人格的な権威面をしていたのは、いまでも許していない。 

 

 

高校を卒業してから、高校のことはいちども気にかけていなかったのに、いまごろ、記憶の倉庫から意識にでてきて向かい合っているのは、甚だ不本意である。どうも、この記憶は、解決しなければならない現実らしい。