ぼくの仕事は瞑想・思索・自己凝視であって、そのほかのものではない。 このためには、ほかのすべてのものから自分を繰り返し解放しなければならない。 これを忘れるとき、ぼくは落ち着きがなくなる。自分の居場所にいないのだから当然だ。
自分の居場所にいるということは、ほかのものを放棄して自分の部屋にいるということ。
此の世の営みすべてが、自分の部屋から自分を外へ引き出すことなのだから、「祈り」の意味があきらかとなる。
ピアノが弾けなくとも、絵を描かなくとも、自分の魂とともにあればよいのである。 すべて単純なことだ。 世のなかにはどうして、じぶんの技芸を自慢し表に出したり、優越気味に他者に奨めたりする者たちがいるのだろう。すべて、本人の人間が出来ていないことをしめしている。
そう。だからわたしは、自分のしていることをじぶんからは話題にしないのよ。
きみはやはり「聖セシル」だよ。