非の打ち処のない内容を2015年に書いている。永遠に引用したい。

12月7日は奇しくもマルセルの誕生日でもある。



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夜ずっと書いていたいのだが、夜寝るほうがよいので、手短に書こうと思う。所謂知識人の(他にとっての)うっとうしさは、要するに自分が知識があって経験もあり事物判断の権威だという自負の雰囲気から来る。そこにおいて(自他の)平等を否定する空気があるから、不快にとどまらず憤りと憎悪まで生ずる。知識人が人間として本物であるという感じがあると、そういうことはないのである。自然と敬い、手本あるいは目標にしたいと思う。この点、反感をいだかれる知識人にはかならず問題がある。さしあたり反感は直感的であるので、説明すなわち言葉にならない鬱屈を他は抱えなければならない。(知識人の前で)自分の判断権を充分確保している気にならない不快さ。無言の抑圧。しかし本物の前ではそういうことはいっさい感じないとわたしは思う。高田先生のようなひとではそういうことはなかったのである(多量の証言がある)。向こう(欧州)での(ぼくの)経験をかんがえ合わせると、知識人の〈権威空気〉は日本だけのようだ。既に学生時代から知識で他にそれを醸す、これは日本だけである。日本国民はよほど優越高慢の欲求がつよいらしい。これはすべて「人間肯定」をしっかり実践してこなかった結果である。向こうを経験したぼくとしてはしっかりその(人間肯定)感覚がある。だが日本に帰ってその感覚でやっていると舐められて不愉快な思いをすることが多いことに気づいた。日本人は劣等感か優越感のどちらかである。正しく健全自然な自己肯定で幼少期より生きることができない社会であるか、民族的に歴史においてそれが弱められたかだと思う。他国人と比べてじつにはっきりとした人間メンタリティの違いがある。これは、真の判断力の基礎である自己実体がきわめて薄弱であることである。この自己実体は個人史的に蓄積し成るものであるが、日本はことごとく他がこれを潰し、本人も甘んじる。参照すべきは森有正の「経験」論、これにもとづく日本批判である。実質において高田先生がよく認識していた日本問題である。知識人が高田先生のような「他者を自由にする雰囲気」を本物として体現するようにならなければ日本の知性権威は健全に定着しない。
 それができない日本で、(ヤスパースのいう)「実存的交わり」などできるはずがないのである。それをわたしはみてきた。ヤスパース学徒で、高慢不遜にも高田先生の「孤独の重視」を疑問視したいらしいふとどき者がいるようだが、精神未熟にあきれる。真に実体的な交わりの空気を「存在」から発しているのは「孤独者」先生のほうなのであって、交わりを遂行する素質を欠くのに理念だけ主張して他の判定批判の資格をうぬぼれているヤスパース園児ではないのである。


意外に思われるかしらないが、森有正の「経験」の思想は、ヤスパースの「歴史性」を通しての「存在探求」という行為的哲学と、相当な親近性があるのである。そして歴史性の哲学的重視は、ヤスパースの哲学的論理学の実質である包括者思想の帰結なのである。存在そのものを包括者として見做す件の思想は、最大の特徴を、「本来的存在なるものは事実的対象性の次元で把捉しうるような何らかの客観存在ではけっしてありえない」という根本態度にもつ。「包括者」というイメージ語で示されている思想は、「存在」を「把捉可能な知」として探究する態度の拒否であり、かえってあらゆる知は、知を無限に越え包む真の存在の「現象」(Erscheinung)である、と見做す態度である。このような存在探求の根本状況において、個々の実存(魂)の自己実現実体である「歴史性」こそが、その限定性(規定性)にもかかわらず、もっとも充実した本来の存在そのものの現象として、存在感得の場となるのである。ここにヤスパースの、「存在の暗号を実存の歴史的実体のなかに読み取る」という形而上的実践が、一種の「象徴主義」的営為として、自覚されることになる。「包括者」と見做される「存在そのもの」の無限空間が意識にとって開かれているからこそ、このなかで、唯一可能な現実的充実の道である「歴史性」が、真剣に引き受けられることになるのである。そのために、狭い対象性意識から我々を解放し、歴史性の生へわれわれの意識を開くのが「包括者の思想」なのである。