優れた叙述である 

 


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高田博厚『もう一つの眼』「島崎藤村」より 

 

 

《 藤村に私はパリで会ったきりである。日本にいた時すでに藤村の作品は読んでいたし、『エトランジェ』や『海へ』も知っていたが、自分がパリに住みなれ、またパリやフランスについて日本人が書いたものをいろいろ読んでみても、藤村の『エトランジェ』と『海へ』がいちばん心に残った。たぶんそれは人に示そうとする紹介とか、自分の理解のほどを見せようとする構えがなく、ただ自分の心の日記を綴ったからであろうし、また藤村自身の文学に対する態度のせいでもあろう。彼は『エトランジェ』の傍注に「フランス旅行者の群」と書き加えているが、これは感傷的だが、「自分に語る」素直さがそれを高めており、この頃の渡航者に較べるとはるかに謙虚である。『エトランジェ』が書かれてからもう五十年近く、私が藤村にパリで会ってからも三十年たっているが、今日でも私はこの二つの――結局一つである――旅行記を、もっとも優れた日記あるいは記録と思っているし、また藤村を近代日本文学者の中の高峰と考えている。なぜなら、私の考えでは、その文学創作態度に、西欧文学から受けた感銘を崩さず、転位させずに真正直に持ちこんだ人である。鷗外にしても漱石にしても西欧文学についての造詣は藤村より深かったろうが、その創作態度や思想位置の点では「日本的」な転位がある日本人であるからには当然、あるいは不可避のことであろうが、この「日本的」の内容が先の二人と藤村ではちがうものを感じる。創作意欲にはさまざまの要素が因をなし、あるいは人生観察、社会批判で、人間の劇を描き出そう〔と〕するものだが、そこには当然作者自身の思想態度、思索経路が現れ、むしろ文学価値の重点はそこに置かれるだろう。そしてこの思索経路の究極点ともいうべきとこう〔ろ〕に一種の理想主義的なものが現れる。・・・ それが文学として私たちの心に結ばれる。そして私たちが西欧文学――古典文学を別としても、たとえばゲエテやバルザック、スタンダール、ドストイェフスキー、トルストイなどに代表され、また現代フランスでもジイドやマルタン・デュ・ガールやカミュ、マルロー、あるいはこの範疇に入らないと思われるプルーストがかえって一層示しており、またドイツでのマンやヘッセに現れているもの――に惹かれるゆえんはここにあると思う。興味中心のものから高められたもの、これは明治以来の日本文学には少なかった。漱石がぬきんでた例で、その後いわゆる「白樺派」の志賀直哉や武者小路実篤はこの「理想主義的」なものを感覚的に継承しただろう。――人間的、あるいは社会的理想主義とこの文学理想主義はしばしば混同するが、前者により重点がいったのにロマン・ロランがある。藤村が詩や文学に惹かれた明治中期は日本が西欧意識をキリスト教信仰と共に受けた時代だったが、きわめて日本的詩情の藤村の精神にそれが一生作用したと共に、家系的に彼の内にある、ある異常質、執念深さが彼の創作意欲を高めた、と私には思われる。日本の作家は若い時には西欧的に創作意欲を抱くだろうが、年をとってくると「日本的」に落ちつくものである。志賀直哉が老齢に入ってから全く創作もなくなったのは、「ものの裏が見えてしまうので、気がなくなった」と自ら述懐したときいたが、これが「西欧的」と「日本的」の境目であろう。藤村はこの点で一生西欧文学を真正面から享けようとしたと思う。彼は彼の日本の感傷をその詩で示し、それとは別に、『破戒』から『夜明け前』に至る創作意欲にこの精神〔態〕度を証拠だてた。》