キリスト教が他の宗教にたいして卓越しているのは、その精神的理想主義に拠るのである。他の宗教は現世利益のためのものである。〈他のすべての人間が幸せにならねば自分の幸せはありえない〉と云われるときの〈幸せ〉とは何を意味するのであろう。物質的現世的幸せに きまっている。これにたいし、キリスト教の目的は、本気で、人間の精神的完成である。この理想主義についてこれない者が、他宗教にゆく。一方、キリスト教に帰依しなくとも、その理想主義に共鳴する者は、教会の圏外に在っても、キリスト教的であるといいうるのである。キリスト教の卓越性は、ヨーロッパの人間観の卓越性にほかならない。「幸せ」が、精神的なものならば、他の人間たちが自分と同様に幸せになることを条件とはしない精神的な幸せは、個々の人間が自分で達成すべきものである。しかし多くの人間は、じぶんより幸せに見える者への嫉妬から、その者を価値的に引き降ろす観念装置としての教義あるいはイデオロギーに帰依している。日本の現世的人間観は、その最も典型的な意識形態であり、日本社会に遍く浸透して、この国の民の人間としての発想を規定しきっている。こういう発想規定は、社会全体を向こうに回そうとも、破砕せねばならない。 

 

 

ものをよく理解しうる読者は、以上の文だけで、ぼくが言おうとすることを了解するだろう。 ぼくが本質論になりきっていることは承知しているが、この本質論は、ひじょうに強力で、現実を実際に規定している。

 

 

個人対社会の芽は、ギリシャ哲学にもキリスト教にも在った。社会革命はそこから必然に起こり、ヨーロッパはそれを受け入れた。日本との差はこれである。これは文化の違いと云って済ませうる問題ではない。 

 

 

西欧文化の原理を排除する日本の姿勢は、国策的であり、封建時代も現代も変わらない。前者はキリスト教弾圧によって。後者は、図式的な文明比較論と、日本の外来文明摂取の所謂柔軟性の強調によって。