春に再呈示したこの節の前に、秋になったいま、ふたたび帰ろう。

そうさせる内容がある。

ぼくの仕事は、瞑想と反省であることがよくわかる。



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四年前のきょう

 

ぼくにとっても良い言葉が沢山ある。 

 


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世の中で語られているものが真実や真理ではない。真実や真理はむしろ語られない、みずから表に出ることをしない地下水脈のようなものとして、誰の所有にもなることなく、出会われることを沈黙して待っている。何か絶対的な謙虚さをわれわれに要求するものとして。(誰も得々顔をして「そのとおり」だなどと言うことさえできない。)

誇りとは何だろうか。「比較」を超えた自分を確立する意志であり、真理・真実の前で真に純粋に謙虚となることができるための前提状態への意志なのだと思う。だから、誇りを持つ者同士は互いを尊重することができる。究極においてそれは比較優劣の意識ではない。比較意識をもったまま真に謙虚となることはできない。そんな〈謙虚〉は倒錯した不純な偽物である。それをわれわれはみな本能的に察知している。
 
 
われわれが素直に謙虚になれる相手は、美的(魂美的)に優れた者のみである。そのほかのいかなる者にでもない。
 

美とは、最初に言った真実・真理が、遂に「光」を発してわれわれの前に現われたようなものだと思われる。ついそれ以前にはむしろ暗黒のもののようにみえていたのだが。


  そういう美を示し現わすことが本来の芸術の道であり使命である。音楽はもちろんであり、絵画で端的に範例のように浮ぶのはルオーの画業である。この意味において芸術は祈りなのである。そのもっとも充実した意味において。



「美」を生みだす構造そのものがメタフィジックなのであり、それに真にとらえられているならばそのひとは宗教的信仰的なのである、本性的に。「祈り」にみちびかない美も芸術経験もないのである。


 ぼくがみずからの言葉を語るとき、その名を口にしなくともふたりとともにある。信仰にそれいがいの定義はない。




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ふしぎなもので、「作品」というものは、鏡をみて制作しているのでもないのに、制作者自身にいちばん似てしまうものらしい。先生の作は、気づけば先生にいちばん似ているものが結構多い。これは、内面と外面との間に本質的照応関係が存することを実証しているように思われる。

 

 

 





ぼくも、高田先生がそうであったように、人が「右」か「左」かということに本質的に頓着しない。「美」と「人間性」はそういうものを超えた次元に根ざすから。第二次的な意識に映った世界の様相の相違におもえる、人を意識的に〈区分〉するようなものは。これが分らないことがいちばん困る。

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マイヨールはただ穏和(温和)なだけではない。そのずっしりとした存在感は、遙か紀元前の太古の遺跡の神像から受ける印象力のような、何か人間を超えた威風の力が宿っている。神的な品格というべきようなものが。なぜこういうものを「人間」が生みだし得たかが不思議だとぼくは感じる。そのくらい、作為性の払拭あるいは超脱が完璧である。人間の巨大さがちがう。


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高田先生作 裸婦立像 1971
 

 

ぼくはこの像の実物をずっと以前東京の画廊の硝子窓越しに観ている。それ以来スフィンクスのように、このいかなる衒いとも無縁な、ただ神秘な幽玄のなかに在るかのような像が、ぼくのなかに生きている。両腕を欠き、姿態を拒否した姿態、これだけのものを「自らの根源から」つくれる、世界に通用する彫刻家が日本に他にいるとはおもえない。マイヨールと並んで置き得る唯一の作家だ。