現代の精神分析派には、個々の人間に固有な歴史性への感覚が欠けている。その結果として、安易に表面的に一般観念で判断することになる。これがいちばん、落ち着いた人間の文化を、崩すものである。
人間がもともとそれであるところのものは、歴史性への感覚なくしてはまったく接近できないものである。現在の社会は、落ち着いた教養を培うにはまったく適さない環境であるから(だからまともな知識人は、都会を避けて地方・田舎・離島で仕事しようとする傾向が、生じるのだ)、じぶんの問題を、営業的にその種の問題を受け付けているカウンセラーのところへ持ってゆく。そのカウンセラーが合理的な常識人であるならまだよい。あたらしい福音の知を標榜して人間救済を打ち出す輩は、もう教養も歴史性への感覚も持たない連中である。
教養感覚も、歴史性への感覚も、同じものなのである。
「教養感覚」と「歴史性への感覚」とを、これからはひとつの同じ感覚、というより同じ「人間への態度」として、自覚する必要がある。
これの無い者は、人間問題を扱う資格はない。