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知性と伝統 〔補〕 

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知性とは何であろうか。それは感覚が嗅ぎ分ける繊細で微細なニュアンスや相違を意識が照らし把捉する注意集中力であり、強靭な持続的意志力を必要とする。

「感覚そのものに合理がある」(高田博厚)が、この合理はこの意識力なくして感得できないだろう。だから人間感覚じたいがすでに知性の働きなのである〔「感覚することが既に抽象である」と先生が言うのはこの意味である〕。美の創造において同時に知性活動が、「美とはなにか」の自問自答が、おこなわれている。これが「人間精神の伝統」の根源である。


この知性行為の集積が、具体的で様々な「伝統」を生んでゆくだろう。

知性行為がなければ真の伝統はないであろう(風習のみであろう)。


 この「感覚の合理」と先生がよぶもの、つまり感覚の秩序、は、主観の恣意的な発明ではないゆえに、「感覚の形而上」の空間をひらくと思われる。
 知性は感覚を通してメタフィジックに迫りこれを開示しようとする。これが真の象徴主義(サンボリスム)だろう。


一気に窮極まで詰めたが、このような知性は本質的に孤独なものである。どのような孤独か、それは同時に人間精神の根源的独立性なのであるが、このような境に顕れる:

《たとえば一奴隷、一職人が主人の命令によって、ある作品を作るとしても、彼は自分が作る作品に対してはまったく自由であり、つまり彼自身の内容しか作品に現わしえないのであり、芸術作品の美の判定はこの場においてのみ可能なのである。》(傍線引用者)

《奈良東大寺の大仏は、・・・日本全国の百姓を強制徴発して労働奉仕させて作ったのだが、あの大仏の原形の美を否定できはしない。》

 (9-10頁)


この意味での「自由」が、自己の「内的自由」であり、主題別編成欄 「自我の内的自由」 で述べたことである。この自由においては、自己の実質が試されると同時に、真に親密な己れ自身と出会うだろう。「神」と出会うのは この自由を通してのみである。〔高田博厚の「神」は、孤独な自己が「名づけ難く当面するもの」であり、この点で、ヤスパースが一切の規定を超えた超人格神的な窮極存在として志向する「超越者」ときわめて重なると思う。高田のイデア主義と、ヤスパースの存在探求という相違はあるが。〕

 

 

「伝統」の普遍性 

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「伝統」は歴史的なものであり、そのかぎりで特殊的なものであると誰しも思うであろう。これは正しい。しかし高田氏はここで「人間」の視点から敢えて一歩を踏み出した〈見識〉を示している。そしてこれは単なる理念や観念ではなく、氏の長い美術遍歴経験から、ゆるがぬ根源的認識として示されている。すでに示したテキスト11-12頁を読んでいただけばよいのだが、人間が、いかに状況や歴史が違えども、窮極の美を追求してゆくとその頂点において、時代や空間の差異を超えた或る普遍的なものを顕わすようになり、この普遍性こそが、「真の伝統の意味」であると、氏は、わたしの表現で謂えば、ここでも、〈さかさまの真実〉といいうるものを提示しているのである。

《私たちにとっておどろくべき、またよろこぶべきことは、歴史の中で人間は、その精神や感覚・知恵がある段階に達すると、時間や距離の差いかんを問わず、ふしぎにも同一形式、同一感覚、共通する美しさ、つまり普遍性のある美を生むのである。》
《そこに現われた人間精神の同一性、普遍性・・・ 真の伝統の意味をここに見るのである。》


 そして、氏は、「美術、音楽、哲学や宗教」、およそ人間精神の証たる、美において最も直截にその普遍をしめす、人間の根源的なもの、「人間のもっとも奥深い本質的要素」を、「思想」と呼ぶのである。これは出来上がった体系としてのそれではあるまい。人間精神を根底から秩序づけ規定する「イデア」としての思想であろう。Gedanke 〔産出された思想〕ではなく Idee 〔産出する思想〕である。
 

 

 

個から個への伝統 

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「個」が驚き、感動し、反省意識することが、「人間」の原点である。個が先か、社会が先かということは、フランスの哲学者メーヌ・ド・ビラン(Maine de Biran, 1766-1824)が当時の神学的思想家ルイ・ド・ボナルド(Luis de Bonald, 1754-1840)と論争した問題でもあった。ビランの『哲学の防衛』(Défense de la philosophie, 未邦訳)は、この微妙であるが根源的な問題を、哲学的良識を懸けて「個」の原理性を擁護主張した論作である。高田が主張する、美における「人間精神の伝統」も、同様の原理認識に基づくものであることは明らかである。

《人間精神の伝統は、社会や時代の変遷とはまた別個に、個人から個人へ継承されてゆく。なぜなら、社会がどのように進歩し複雑化しても、”自我”は常にただ一つであり、そして芸術創作なるものは、いかなる場合にもこの”自我”の表出、さらに的確に言えば、”自我”の内部を濾過して現われる”形”だからである。》

この「個から個への伝統」は、その「継承」のされ方において、個の絶対的独立性を根源とする。謂わば、個の相互間で、各々の窮極の真実性を「確認」し合い、「覚醒」させ合うのが、「継承」の真意なのである。ヤスパースが自らの哲学における「実存的交わり」の理念を哲学史に拡大した『偉大な哲学者たち』(Die grossen Philosophen)の企画、一種の世界哲学の理念も、同様の伝統観に基づくものである。高田はテキストで、ロダンの「フィディアスとミケランジェロには無条件に頭を降げよ」という言葉を掲げているが、彫刻史におけるこの三大巨匠の相互独立性を指摘しつつ、彼らの「超系統的」、「超性格」的な、「彫刻の本質美の一致」、「同一」を強調するために、この伝統自認の言葉を掲げているのである。


〔 Pheidias(フェイディアス或いはペイディアス), 紀元前490年頃 - 紀元前430年頃。アテナイで生まれた古代ギリシアの彫刻家。パルテノン造営の総監督であったと云われる。本尊「アテナ-パルテノス」、オリンピアの「ゼウス像」等を制作。〕


 

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高田博厚「偉大な芸術家たち」 から、三節再録した。前節の「能動的探求」の方針にしたがって、さしあたり要点を示していると思う自らの文を自分の前に置いてみる。


伝統とは、個の知性に基づいた普遍性である。



《 真の美の伝統とは、政治力から独立した精神的自由の連続のことである。》

「事物を感覚し把握する精神の自由」、これこそ「自然」なのであり、この意味での自然において、美の尺度(ムジュール)が、示されるのであり、この会得が、美の法則を知ることなのだと、ぼくは理解する。》


「感覚の合理」とは、このようにして会得される「美の尺度」だろう。



ただ想定するしかないものではなくて、確実に自分の内に知られるものを、探求すべきである。これがデカルトの精神であり実存哲学の要諦である。


外へ向かう目には悪魔の嘘が混じり真実を見失わせます

知恵と知性でうちに向かう目を養って心の目で真実を見極めてください


 これはすばらしい言葉である。



いま、二年以上の疲れがたまっている。 これもすばらしいことだとおもう。

いま、思想構成に難儀をしているのは、ぼくの状態がそれを妨げていることのほかに、真の思想は理論ではなく、理論的表現を、論理性そのものは常に挫折させるような仕方で取り得るのみであるからである、とも、一般的には言える。もっと直截に言えば、謂わばいまの状態を逆手にとるとも言えるような仕方で、いまのぼくには、「生きること」そのものが「思想そのもの」となっていて、客観化することを拒んでいるかのようであるからである。

生そのもののなかに秩序と促しがはたらいていることが思想を証する。そのような思想は必然的に「神」と関係している。 この意味でこそ、思想は必然的に「信仰」である