知識というのは、名辞であり、それを説明する命題である。それはそれ自体としては何の意味内実も持たないものである。知識の限界というものは、知識が示そうとしている意味内実である現実実体にわれわれが接する途端に、直接に、感覚実感として、直ちに明らかとなる。この意味内実こそは、われわれが経験すべきものであって、知識が自らの限界とともに、限界を超えて、示しているものである。この充実して経験される未知領域に面してはじめて、人間の知性は働き始める。この未知領域こそ、知性の関心の対象なのである。 そうであるのに、学校教育は、試験評価という、教育のためには全く副次的な行事のために、教育を受ける人間の意識を、単なる知識としての知識に拘束し、知識の非内実な数量を競わせるという、本末転倒なことを、国の学制という強制枠のなかで、未成年者たちに、自発的な思索や読書や人間経験の時間を奪いつつ強いている。無自覚な学童時期を卒業し、人間意識に目覚めた青少年たちには、とても受け入れられる精神環境ではありえない。 とりわけぼくはその目覚めが非常に鋭かったため、高校生活には全くの不適応状態だった。 高校に入って、学ぶ学科の意味が、それらが自分にとって何の関係があるのか、まったくわからなくなってしまい、それを問うことも禁じられた状態に、投げ入れられたのである。これは、日常という名を借りた地獄だった。