過去のじぶんはずいぶん深いことを言っている。いまのぼくに強制はしないが、そのうち追いつきます。



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人間の自分の心というのはやっかいなもので、あの時なぜあんなに不寛容だったのだろう、いまなら寛容に流せるのに、と思う。これを以前の自分の未熟、いまの自分の〈成長〉などと言っていいものだろうか。その時はその時の中でしか純粋に了解され得ない不可抗的な自分の必然的感情が充満していて、それに従うことが正直だったのだ。それに従い、それを実現した自分を経験したからこそ、いまの自分の〈寛容な感情〉もあるのではないか。そのようにして自分の「歴史」が築かれていく。現実の歴史は「一つ」なのだから、誰も実際に複数の可能的歴史に還元して相互比較してみることは出来ない。「一つ」の歴史を尊重し肯定するしか道は無い。この「肯定」は、正しいと見做すことではない。それ以外にありえない自分を否定することは出来まい。そして肯定するのは「自分」だけの行為だ。これが「自分の歴史」への正しい態度であり、他者がそこへ容喙する余地は全く無い。ここで〈成長〉などを口にする者は、一般に歴史なるものに〈成長〉を認める者だ。歴史は実体において〈成長〉しただろうか? 様々な制度は複雑化し緻密になったかも知れない。しかしそれは「人間」の実体ではない。人間はいつも未経験な零からやり直す。経験の蓄積は或る意味で失敗と過誤の蓄積だ。だからそれを否定するのか。否定した自分は零以下に転落しているだろう。もっと悪い自分があるだろう。粛清行為は常に大量殺人だった。歴史の否定の報いである。自分の歴史を否定し〈法則〉に従い〈永遠の幸福の道〉に入るのか。この〈福音〉は甘い味がするだろう。国も個人も同じである。「善人なお往生す、いわんや悪人をや」。ぼくは悪人であろう。「私が来たのは罪人を招くためである」。これは自分の歴史を正しい意味で肯定する者のことである。

 正直な不寛容は純粋さの現れである。この純粋さを寛容へと導き得るのは自分自身のみであろう。自分を愛し得るか否かが君子かテロリストかの分岐点となるだろう。

この「一つの歴史」はとうてい判断しきれるものではない。接しえたかぎりで味わうものである。それを育ててゆけばよい。国においても自分においても。

自分が知っている分だけ、他のことは知らない。これは歴史的規定性すなわち人間の有限性そのものである。自分が所有し得、沈潜し得る領域からどれだけのものを汲み取りうるか、それが教養である。われわれはデカルトが知り得なかった途方もない領域を識っている。彼より良識を開拓しているとはとても言えない。

今日一日が全てと思って生きる者には、これまで生きてきたことを肯定する道があるのみ。善悪の彼岸。ただ魂の記憶と人間の理念とがあるのみ。これに忠実であることがすべてである。〈法〉はすべてここに純粋なかたちでふくまれている。