「闘争」を肯定しない思想はすべて、悪を承認する思想である。
他のブログを読んでいると、だんだん読む気がなくなってくるブログがある。教師根性・福音根性のブログである。積極的触発の意義をすべて否定はしないが、自分を他者より一段高いところに置き、そのことへの確信に基づいているので、段々うっとうしくなる。しまいには、あなた自身もっと勉強しなさいと言いたくなる。この世に究極回答などない。それを最もよく知っているのは、そういうブログがしばしばその言葉を引用する古今東西の賢者達自身である。そういう賢者達は、引用者よりはるかに私の近くにいると感じる。私にとって問題なのは、この賢者達の言葉を引用することではなく、私が私自身の道を通して、彼等と互角に交われるような照応力を培い、彼等の言葉を私自身の経験判断で定義し得るようになるに至ること、しかもけっしてそれ自体が目的ではなくあくまで私が私自身に到達することが目的であるような道の途上でそれも為し得るようになることである。賢者達と私の一致している根本は、この世に前提して道を歩めるような予め知られる調和などないという態度である。だから彼等は常に己れの全人格を賭けた〈途上の人〉として己が人生を全うしている。それに気づいていたら、自分の生きざまを謙虚に吐露する以外のことはできなくなる。私の為していることはそういう実践であるととらえていただいて結構である。高慢な者、たるんだ者が、私はいちばん嫌いである。
自分が宗教的であるべきであって、他者に宗教を説くことではない。前の事から後の事へ無用心に移行することは、境位意識があればできない。
魂が生きているかだけが問題であって、そのことを思っていたら時間的死をかんがえない。これは主観的真実であるだけでなく客観的真理でもある。ぼくは母の霊が死後存続して現われたことを客観的に知っている。このことを言っておこう。いまはどうか知らない、すでにどこかに生まれ変わっているかも知れないから。なぜかそういう気がしている。今日はクリスマスで母の月命日だ。この電子欄を始めてちょうど9か月めでもある。
ぼくは死をかんがえない。それどころではない。それがほんとうであって、退落していない証拠である。上のことは自分のために言ったのではない。