四年前のきょうの節。じぶんで読んで感心する。いまのぼくはぼくで、するべき課題に集中しているから、いまの状態はこれはこれで個性なのだ。自覚しているかぎり。 この過去節の課題も、いまの課題へと一貫している(「存在」と「客観性」)。

 

「〈ことばも、自分の身体感覚(的な実感)から離れないことのみを書く〉という観念は大事な指導観念だ。ぼくは〈正しいこと〉自体ではなく「ぼく自身の形」を彫ろうと努めているのだから。」



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写真機が発達して、ものとの接触も写真を撮ることのようになってきて、〈被写体〉となっている存在に失礼だなとおもうことがしばしばだ。ほんらい、記憶にとどめたい光景は、それとともに生きる時をすごすに如くはない。それによって自分の内に生きるようにするのがほんとうの記憶だとおもう。ほんものの絵も、そういう内面化された情景の表出として同時に自己の魂の表現となるだろう。 そうはいっても写真のあたえる感動というものは一方で厳存する。両方の欲求の間でいつも戸惑うのが現状だろう。


「平和」のために武力放棄か、武力顕示か、いつも問題になる。ぼくは一方の立場をとって他方をおとしめるのはまちがいだと思う。ぼくはいつも両方の立場に或る敬意をいだいている。そこに誠意と勇気があるかぎり。ただ、反する立場を否定する物言いをする向きには、敬意は願いさげになる。ぼく自身、その都度の状況と状態によって両つの側の一方に接近し、再び他方に接近する。ぼくの在り方は、理想と現実の両つを顧慮することが常識である欧州人には普通のものだろう。いい加減、戦後日本も大人になるべきだ。
〔要するに冷戦の名残なのだ、「反戦」は社会主義へ、「反共」が自由主義へ組み込まれるという。日本の知性の幼稚さがこの国内分裂を戦後許してきた。国際状況もこの分裂を惹起し各々を組み込んだ。この構造は今もつづく。この分裂構造にイデオロジックに安住していると、米国と中国という両圧力に日本は気がつけば押し潰される。独立国家としてしたたかな戦略的知性に目覚めることが必要だ。これを本来の人間的知性の陶冶成熟と同時になさねばならない。この〈同時に〉は根源的に必然的である。〕


〈ことばも、自分の身体感覚(的な実感)から離れないことのみを書く〉という観念は大事な指導観念だ。ぼくは〈正しいこと〉自体ではなく「ぼく自身の形」を彫ろうと努めているのだから。


さりげないことばの裏にどれだけの実質がこもっているか感じ得るようになるまで、ソフィスティケイトされたわれわれは時間がかかる。うかうかしていると一生わからない。われわれがふつう教養だと思っているものはじつは全然教養ではない。知的洗練が気取りとならない人など滅多にいない。純真なことばを素直に感ぜられるようになるまで時間がかかる愚かさ!
 われわれは〈客観性〉の訓練を執拗に受ける。結果は、そこから〈存在〉への長い回帰の道程(みちのり)だ。はじめから〈存在〉にとどまって生きているひとはそれじたい恩寵だ。無垢とは、もっとも充実したものとして、なんら自己主張することなく、われわれがそれに気づくのを、この世の役を演じながら、待つともなしに待っている。