マルセルのいう「実存」の世界は、そんなに素晴らしいだけの世界だろうか。人間は(そしてものも)多様な波動を発している。それらを無差別に無防御に受けていたら実際はたまったものではない。種類によっては波動を拒否することも必要だ。そのために、その波動を発する存在を、意図的に観念の世界に引き据えて、規定し、自分を防御する。この意識行為を、よほどの(イエスや仏陀級の)聖人でないかぎり、人間は皆やっている。これは、相手を攻撃する態勢である。 これとは別に、じぶんが本音で愛する存在に、本音のままに没入し、じぶんの世界から、波動の合わぬ他の存在を結果的に無視し消し去る態勢があり、こちらのほうが本質的で完璧である。そして、「実存」を根源的に経験するのは、この、具体的で唯一的な愛の世界においてである、というのが、マルセルの本意だとおもう。マルセルはしきりに、「宇宙(l'univers)の実存」と云うのが、気になるところだけど、個人的な愛の親密さが、絶対的な、実存の世界への門であることは、不動である。つまり、実存の世界への「参与」(participation)は、そういう、根源的に力動的なものである、ということだ。そういう存在論的参与を達する道程において、マルセルが実存の次元を際立たせるために批判している観念論的次元を全的に否定し去ることは、マルセルの本意でもないだろう、と思う。