人間は、欠点ではなく良いところを見なければならない、とは、よく云われるところである。しかしこの言葉の真実性も、他を見る主体の器に大きく左右されるものだと、ぼくは思う。程度の低い主体のことは、ここでは問題としない。ぼくは他をどう見ているかというと、およそ良さそうなところを認めていても、すこしも本質的でない、と思う。良い点、などというものは、一般の人間においてはいちばん表面的なものだ。表面の奥の本質がどうであるかこそ問題である。そしてこの問題の本質を見抜くには、常にでなくても、その人間の欠点として時々気づかれることこそ、鍵となる。その欠点から、その人間の奥の本質的ありようを洞見できるのでなくては、哲学的感覚はない、というべきである。良いところ、良くないところ、というよりも、本質が問題なのである。ここで本質とは、その人間のイデア(理想の姿)というのではなく、その人間の現実の根本的ありようである。逆にいうと、この根本的ありようがしっかりしていることを洞見できれば、その人間の多少の表面上の短所は、かなり大目にみることもできるのである。同じ人物についても、小人の見方と聡明な者の見方とでは、判断の表面的一致・不一致をこえて、内容は甚だしく異なる。小人のことはここで問題にしていないから、聡明な者は、人間を評価するのに、一見小さな引っかかる点をけっして見のがさない、つまり、こまかな短所を吟味することを怠らない、そしてこれは正しいことである、ということを言っておく。あまりに、こういう注意の感覚と努力を怠って、ただ教科書的・マニュアル的な〈基準〉で、表面のみから偉そうな断定をして恥じない〈哲学者〉が、日本には嘆かわしいほど多いという、現実を、ぼくはじぶんの経験から、じぶんの首を懸けて、証言する者である。 

 

 

あなたはごじぶんを、そんなに聡明な人間だと思ってらっしゃるのですかって? はい、もちろんですとも。