遠藤剛熈先生の欄より 

 

遠藤先生の高田博厚先生へのお気持はまったくぼくと同一である。



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■   高田博厚 さんとの出会い 1

                         (全3回の内1回目)

 
                   遠藤剛熈 
         
  高田博厚
 
  武蔵野美術学校(今の武蔵野美術大学)

で高田博厚さんの講演があった。

 レンブラント・シャルダン・ドラクロア

・コロー・セザンヌ・ゴッホ・ルオー・

ピカソ・佐伯祐三などの西洋絵画が中心であった。

   シャルダンとコローはセザンヌの先駆者

であること、ドラクロアの情熱とエネルギー

のすごさのこと、セザンヌの初期の不器用

な絵が実に立派であること、ピカソのデッサン

の腕の確かなこと、ルオーが納得できない

未完成の絵を大量に焼き捨てたこと、

佐伯祐三が日本人油絵画家の中で最もよく

油絵の体質を生かして絵の具をつけた画家

であること、日本人画家の色彩感覚の貧弱な

こと、などを話された。

 ゴッホが、額から真正面に真剣に制作に

ぶつかっていったことを学生達に話された時、

高田さんの講演はもっとも熱が入っていた。


 その後間もなく、私は高田さんに手紙を

書いた。高田さんの講演を聴き、高田さんを

信頼したので会いに行きたいとの内容を、

簡潔に書いた。

 折り返し返事が来た。よろこんで会い

ましょうと。当時、高田さんはフランスから

日本へ帰ってこられて間もない頃で、西落合

にアトリエを借りておられたようだ。

 どういうわけか、学校の授業や制作のためか、

私は高田さんに会いにいかなかった。

 高田さんには失礼をしてしまった。
 

 しかし、その後、高田さんの文章を読んだ。

 ある年、「ルオー展」でイザベル・ルオー

さんが日本へ来た時の、京都での講演会の壇上で、

高田さんの姿を見た。その時の高田さんは歩行

するのも老いて見えた。

 一九八○年に高田博厚の回顧展が東京などで

行われたとき、私は高田さんに電話で東京の

会場で会う約束をした。

 会場には何人かの入場者がいたが、私は高田

さんを見つけて高田さんに向かって歩いていった。

 高田さんは私とは初対面であるはずなのに、

距離を置いている私に気づき、昔からの友人

であるかのように、親しい動作をされた。

    そうして近づくと、名もつげない私に、

「鎌倉(高田さんの家)へ行こう」といわれた。


 展覧会が終わって少したってから、私は

高田さんに電話で道順をたずねて、   鎌倉の

高田さんに会いに行った。

 高田さんの家は稲村ヶ崎にあった。大内兵衛

の家から山に向う一本道の突きあたりにあった。

家の裏は小高い丘になっていた。自然の樹木

にかこまれた閑静なところだった。

 通されたところはブロックづくりの質素な

小さな部屋だった。ブルジョワ的な虚飾は

全く無かった。金銭欲のない勉強一筋の生活

が感じ取られた。

   ブールデルの彫刻が置いてあった。

……
        (次号へ続く)

 

 

 


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■   高田博厚 さんとの出会い 2

                         (全3回の内2回目)

 
                   遠藤剛熈 
         
   私は作品を高田さんに見せたことがない

ので、高田さんは私の絵画を全く知らない。

 高村光太郎や岸田劉生のことをたずねた。

 「高田さんはよい友人達に恵まれてよかった

ですね」と私はいうと、高田さんは、

 「それはたまたまそうだったのだ」と答えられた。

 「私には認め合えるような画家は一人もいない」

というと、

 「それなら一人でやればよい」と高田さんは

答えられた。

 「当時の友人達は勉強しなかったが私は

勉強した」と高田さんはいわれた。書棚の中は

全て洋書で埋まっていた。

 「いろいろなことを書いたが、まとまった

文章はほとんど書かなかった、書き上げたのは

『ルオー』ぐらいのものだ」と高田さんはいわれた。

 私は西洋と東洋の文化の比較について話した。

高田さんは、「ヨーロッパ文化はギリシャ思想

が元にある」といわれた。
 

 在欧三十年近い間に制作した作品のほとんどを、

日本へ帰国する直前にぶちこわしてしまわれた

理由をたずねると、高田さんは「自信がなかった

のだよ」と正直におどけたようにいわれた。

 高田さんの師のルオーは描き上げられない多く

の作品を焼却した。

 私も自分の過去の作品に満足してはならない

と思った。

   「孤独な仕事だ」と高田さんは私に言われた。

 夫人がお茶とお菓子をもって来て下さった。

 ずい分長くいたと思う。

 年老いて病み勝ちな高田さんはつかれてこられた。

 高田さんは、

  「又来てください。貴方のところの若いお友達

とも一緒に来てください」といわれた。

 別れる時、

  「仕事をするのだよ」と私に言われた。

 家の入口に、ギリシャの神殿を模した小さな

柱があった。

 ひっそりと立っていた。

 老いた高田さんを思うと淋しかった。

 青年の日に大望をもって日本を出て

フランスに渡った高田さんは、三十年間欧州

で制作された。

 日本帰国後再出発とばかり精力的に制作され、

今、生涯の最後の時期を迎えておられるのだった。

 その後間もなく高田さんの病気は重くなり、

面会謝絶となった。病状を気づかって夫人に

電話をかけたが、ついに高田さんは帰らぬ人

となられた。
 
……
        (次号へ続く)

 

 


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■   高田博厚 さんとの出会い 3

                         (全3回の内3回目最終)

 
                   遠藤剛熈 
         
 高田さんの在欧三十年、制作六十年の経験

の要約は、私に西欧芸術の本筋を教示してくれた。

 シャルダン・コンスタブル・ドラクロア・

コロー・クールベ・ルノワール・セザンヌ・

モネエ・ゴッホ・ボナール・マチス・ルオー

と続く近代西欧絵画について書かれた氏の

文章は適確で、私のためになってくれた。

 「ルオー」は立派な文章である。

「孤独な自己の絶対なるものへの全身全霊

をあげての対決。全存在をもって魂と感覚

を深める。一生涯労働して絶対なるものに

どこまで近づくか。他人に報酬を求めず仕事

をして、自分が自分(の神)に支払う…」

ことなどが書かれている。

 私は外国はおろか、東京へも十年に一度位

しか行かない。長年京都で制作現場と自宅を

通うという単純な生活をしている。

 「両親の信じた空の下を愛すること、

他のことは妄想である」        ルオー。

 「私のような彫刻家になるな、君の国土

を愛し、自国を造形せよ」    ブールデル。

 
 この世の人生行路は人それぞれ異なっても、

求める究極の真理は一つである。

 高田さんがセザンヌやルオーについて語る

言葉の根本は、真理のために、自分を偽らぬ

こと。自分自身であることである。

 高田さんは青年時代は高村光太郎や岸田劉生

らの弟分として、渡欧後は師事した、

ロマン・ロラン、ルオーの弟子として

、世俗的な成功を超越して仕事をされた。

 いかなる賞も受けず、位階昇進の運動は

しなかったはずだ。

 高い理想をもって高田さんに会いに

くる年下の人間を、対等に友人として博い心

で厚くもてなされた。ヒューマンな人格者だった。

 コロー、セザンヌ、ルノワール、マイヨール、

ボナールを愛しながら、ミケランジェロ、

レンブラント、ロダン、ブールデル、ルオー

の芸術に傾倒された。

 ベエトオベンに傾倒しながら、バッハ、

モオツアルトを忘れず三位一体として考えられた。

 百済観音像や鑑真和上像が、高田さんの

東洋人としての心の故郷にあった。

 幼い頃母親から聴いた故郷の福井の子守歌

をなつかしまれた。

 フランスから日本に帰って、六十歳近く

なってから、アトリエを借りて、金銭にも、

日本特有の美術社会にも、左右されずに彫刻

の制作に精進された高田さん。私も同じ年齢

に近づいてきた。

 「孤独な仕事だ」「仕事をするのだよ」

と今も高田さんは私に語りかけている。

 それは高田さんの師のセザンヌとルオー

の声でもあった。

 私は師達と同じ道についたことを、

高田博厚先生に感謝する。    

                              1992 春