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一言で言えばそういうことである(これは長年ずっと言おうと思っていた)。 

 

音楽、絵画、彫刻、建築、文学、すべて芸術とされるものに、現在ほとんど感じられないもの、それは、教養感覚(端的に「教養」と言っていい。単なる知識としての教養と区別するために「教養感覚」と言っている)である。教養感覚のない芸術家の作品を、教養感覚のない鑑賞家が享受して何だかだと言っている。 双方とも、教養感覚を涵養するためにあらゆる努力をすべき者たちである。 

 

教養感覚(ほかにどう呼べばよいのか)が感じられないのに ぼくをほんとうに感動させることは けっしてできない。 このことに無感覚であるのが、ぼくの周囲にいた昔からの者たちであり、そのためにぼくはいつも断絶と孤独を感じてきた。いくら本を読んでいても教養感覚とは関係ないと言ってよい。 教養感覚のある者が本を読まなければ意味はないのである。   

 

 

教養感覚とは、「知性と愛のある人間性」だろう。 この定義は いまここではじめてする。裕美ちゃんはその最高の具現者なのだ。

 

 これが真実なのだ。

 

 

 

知性と愛を忘れない、だから常に「内なる祭壇」を懐いているのが感じられる、そのような意味で 「奥ゆかしさ」のあるひと、これが 教養感覚のあるひとなのだ。 いま、教養感覚とはなにか、立派に言葉にしたと感じる。 この言葉の前で、じぶんを恥ずかしく思わない人々は、現在きわめて少ないのではないだろうか。