《 それならばいったい「本質」とはなにを言うのか? これは科学的「真」とはちがう。認識の方法も受容の手段、経過も異なっていて、たとえばある観念が吟味され実験されて、一つの規定された「概念」として成立し得るようにはいかない。人間精神が感覚を通して表現される芸術領域での「本質」とは、この種の普遍共同概念でも、また最大公約数的、万人是認の常識でもない。すると、芸術における「本質」とは各人各様ということになりそうである。たしかにそうなのである。それならば、私が先に言った「一貫する持続性」と矛盾するではないかとの反論が出るだろう。これもたしかに出る。だから問題になるのである。

 今日私は大論文を書く気も時間もないから、一言で言いきってしまうと、芸術における「本質」とは、「自我」の介在なしには在り得ない。「自我」を経過しなければ確在し得ないのである。科学的真は自分がいたって、いなくたって存在するが、芸術本質は「自我創造」によってはじめて認識し得る。だからここに非常に危険な陥し穴があり、ここで多くの人が「本質」と「質」をとりちがえてしまう。元来が感性の術(わざ)であるから、漠然としていて、主観的である。しかしここで私たちが厳密に反省思考しなければならないのは、人間精神が「自我」の独りの道を通り、そこで経験し錬磨されたものであるからこそ、真の普遍性に到達するということである。そしてそこで見出された「本質」を超時間的に持続させるものは、時間でも社会でもまた大衆でもない。ただ「個」と「個」との連結においてのみ一貫性がある。言いかえれば、本質は時代的、地理的差違になんの関係もなしに、存続し存在する。そして「個」の連結とは影響とか伝承を意味しない。ただ「個」が実感し経験した人間精神の共通する「定義」あるいは「形」が本質とされるのである。たとえばギリシアの「若い女」(コレ)の直立像と百済観音の直立像とは、地理的にも時間的にも関連がない。そこにある共通性はその直立の姿態だけにあるのではない。ただ人間の造形精神が到達し帰結した「本質」「形」の定義の点で一致しているのである。そして古代においても、また現代でも、「自我」がこの真の発掘に到達するならば、「本質」は永久に不変であろう。》 (続) 

 

 

 

 

 

 

高田さんは、この論文では、みずからの思想を、読み手を意識して、懇切に開陳してくれているように感じる。先生がこのような調子で書くのはめずらしいことのように思う。このことが、この論文をぼくが紹介しておこうと決めた動機である。