これはよい節である。じぶんで+をつけている。

信仰とは、神との関係であり、創造主とのそれではない。


 


テーマ:
 



ぼくは熱心さに駆られて身体管理を失敗することがあるが、そうして生じた状態も、梃子になって何か積極的な内実をもたらすものだと自分で勝手に(自分の自由から)主体的に見做して、善きことのようにそれに期待しそれを受け止める。
 対象そのもの(世界)にその善性を帰するのではない。対象を超える何かに期待する。大事なのは、ぼく自身とこの対象を超えるものとの関係である。これが、「実存」と「超越者」との関係である。
 真の信仰は、この、実存と世界と超越者との区別と各々の間の固有の関係性とを、識別的に知っている。
 これが、意識性を貫徹する健全な哲学的信仰の節操というものである。
 〔この意識的識別を曖昧にすることによって、あらゆる人生観世界観信仰観上の混乱と欺瞞が生じるだろう。ヤスパースが正し告発するのは、これらの事である。(彼の「包括者論」が、彼の「哲学的信仰」の基礎づけの意味を持ち、同時に「理性」の証の思想であるのは、この意味においてである。)〕

 ぼくの煉獄の窮みを尽くした経験と意識的努力の「意味」は、遂にこの哲学的信仰の核心を自分自身の根源から見出し、自分のものとして確信することであったことに、いま気づいている。
 高田博厚の「信仰」の核心もこれであることを同時に(ぼくは)理解している。 



ただしこの「世界」という踏み台、存在の現象の場は、それ自体の意志を持っており、これが悪魔の破壊意志である(攻撃的に破壊しようとするだけでなく、懐柔的に甘く堕落させることにより破壊しようとする。同一意志の表裏である)。大方の者達は、これを神と思い、これを拝み、すすんでこの傀儡となる(悪魔崇拝)。そうなると、どれだけの人間がほんとうに信頼しうるだろうか。
 このことの徹底的感知と意識化において、ぼくは殆どひとり ひじょうにすすんだ地点にある。〕



 
 

これは別件である:
他が、「おまえには言ってやる者がやはり必要だろうが」と言い、「これをあなたに言うことは自分の義務だと思う」と〈確信〉してみせるとき、ぼく自身はいつも遙か奥、遙か先へ歩み見ていた。ぼくには自明だが他者には深すぎるらしいのを訝しがりながら、誰にも本意を言わず独りだった。ぼくが他者の集合体からどんな〈裁き〉を受けようとも、ぼく自身のほうではそういう全体の本質をとっくに洞見しており、遙かその先にいるのである。ぼくは自分の明察をすこしも誇りはしない(そんなことで誇ってどうする)。ただ、どうして他がぼくとおなじ水準でないのか、そのことだけがいつまでも不可解なのである。  



思想する者は、此の世にほんとうに「美しいもの」をひとつでも生みだしえたのか、この、人間実質を唯一証する「美しいもの」を。それだけがぼくを痛切に喰む。


「思想」を誇るなかれ。狂気の沙汰だ。





ぼくの生活経験をふり返ると、奇妙というべきか、社会で長期間生き世間常識があると自任する周囲の者達のさしで口によって、却って正常な人間関係感覚が壊され、関係を毀損された場合が少なからずある。これはどういうことであろうか。ぼくにとっては、連中がもともと気狂いに思える。智慧感覚のない者がいくら経験を積んでもろくなものではない。業(ごう)というか何というか。同じ人間が、半分は感覚正常で半分は感覚異常である。所謂学の有無寡多に関係ない。どうして人間はこんなに愚かで自惚れなのだろうか。みな、自分はまっとうなつもりで愚かしく他を見くだし、愚かをやって恥じない。
 あなたはどうかと問う者があれば、ぼくはどういうわけか自分の正誤に気づく感覚はあるらしいと謙虚にこたえておく。その感覚が死ぬまでなく、他を審判し責める者が殆どだろう。「死ぬ思いをしなければ解らない」のはぼくではなく、そう言う者こそ死んでも解らないだろう(だからろくでもない裏世界〔霊界〕をつくって此の世をみだしている)。