自分の復習 



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箇所はいま指摘できないが、多分『哲学』第二巻「実存開明」(Existenzerhellung)中の「交わり」の章のなかで言っていそうであるが―あるいは『真理について』の中か―(再読して確かめるのも面倒なので)、「真理は二人から始まる」、というヤスパースの言葉はかなり識られているらしい。この言葉を了解するのも単純ではない。「独立的(独り立つ)思惟」を標榜するヤスパースにおいて、「孤独」は止揚しえない本質的境域であり、同時に、「他者との実存的交わり」-彼の思想の最も重要な主題-を初めて可能ならしめる根源である。「交わり」が最重要主題であるということは、「孤独」はけっして自己完結する境域ではないということであり、「思想は、それが交わりの実現に貢献する程度に応じて真である」、という、わたしが自分の論考のなかで紹介した彼の言葉とともに、意識にとどめておかなければならない。このことをわれわれは謂わば精神本能的に知っている。だから、自分が孤独のうちで真理として確信した観念が、他者もそれに共感同意する場合、率直に嬉しく勇気づけられ、本質的朋友を得たと思う。逆に、他者の否認批判に遭えば、たとえ自分の孤独な根源的意識のなかで確信している観念であっても、心安らかでいることは難しい。これは、自分にとって根源的に(ぎりぎりまで突き詰めて)真理性が確信できる事柄判断であれば、他者もかならず同意するはずだという、「真理の共有性の信念」(わたし自身の言葉)が、謂わば生得的にわれわれのうちに備わっているからだとぼくはおもう。だから、逆に他者の否認に遭うと、率直に動揺するのである。この正負両面をもつ反応可能性を、自分を深める方向で反省思索することができる者ほど、受容せざるをえない。孤独において根源的であるゆえに、他者に無関心ではいられないのである「真理は二人からはじまる」という言葉ひとつを理解するのも、これだけの道理をふまなければならない
 ぼくはどうしてこういうことを書きはじめたのであろうか。書いているうちに、最初の動機を想いだすことが難しくなってしまう。これがぼくのいまのいつもの状態である。ただこれだけを書こうと思ったのだろうか。
 つまりこういうことだ: どうして(どのような根拠で)孤独をもとめ、にもかかわらずどうして同時に他者を気にかけるのか、その理由を正確に意識していなければ、付和雷同で感情的に宜しとしたり、或いは自分の感情(孤独に向かうのであれ他者に向かうのであれ)に素直であることをためらい意識的にこの感情を否定したり、という、自己意識の寡多(多寡)に応じた錯覚過誤に陥るから、思惟する人間の真相に関する気づきと思えたことを記しておきたかったのである。



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「哲学者とはなにか。つねに尋常でない事物を経験し、見聞し、猜疑し、希望し、夢見る人間である。」
 きょう拾ったニーチェの言葉。彼の言葉だからどうということではないが、自由な精神の持ち主であったことが感じられる言葉である。
 また、この言葉には、直截に「メタフィジック感覚」が感ぜられる。これが感ぜられないだろうか。感じるべきである。これと同じことを本気で言うことができる日本思想者が すぐにいるとはぼくはとても思わないのである。邦人においては、同じ言葉でも根底に感傷的諦念があって、「信仰」(教義ではなくほんとうに魂がメタフジックな可能性に自らを開くこと)になどとてもならない。日本人は、どんな知識者でも、本気の「信仰態度」がなく、つまり、己れがほんとうに心の足場とするものが世俗社会であって、「自分の思念のほうが外界より重さと引力をもつ」ことなど、とうていかんがえられない。高田先生の言う「自我の圏」など、とうてい築く生活場ではないことが多い。しかし、それでは向こうの思想を云々する資格はないのである。



 この「メタフィジック感覚」と、「ふたりからはじまる真理の感覚」は、真摯に連繫している。
 〔ニーチェの「神の死」の思想の意味するものに気づく力量があるなら、それにも気づくだろう。ニーチェの思惟は、キルケゴールの反省と共に、ヤスパースの哲学的根本態度をつくった。〕


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ふだんのいとなみもいつものとおり。

前節で言いきったことにより、「何か」が改善された。