この二文は、ぼくにも「毒」のあることをよく認めさせてくれる。誰にでもありますよ。ただぼくの毒には敵わない。 ぼくの毒は、正確には、剣だ。これはほんとうに品のある者のみが持てる。そしてぼくは、これを持てないで代わりに品の無さしか持てない者の、その品の無さを、理解することはできない。

 

 

 

〈そっと離れる〉? 

 

言葉に引っ掛ったから処理しておこう。最近、〈そっと離れる〉という言葉が流布している。本質的に気の合わない相手から穏便に(対立せず)縁を絶つ内的行為らしい。それなら、ぼくが率直な表現で、「裏ぎる」と言ってきたものである。「生きるための道徳の提唱」で言った。人間関係のために自分が潰れるなんてつまらない、ということだ。それが出来て、自分が平穏に生きられるなら、大いにやればよい。問題は、離れても、相手の人格の記憶は残る、ということだ。相手を〈やはり同じ人間〉と思っているかぎり、記憶のなかで苦しめられる。そこで、最後の処理が必要になる。いい子ぶっている者たちはなかなか言いきらないが、自分のなかで相手を「殺す」ことである。その気魄のある者が、生きる。これで、「離れる」ことが完結する。 

 

 

 

'17. 12. 17

「外界との隔絶 高踏」

ぼくと運命と歴史をともにする気もないのに、内的経緯を知ることなくぼくへの判断だけは断定的に投げつけるのが、他人というものである。汝の大いなる罪を嘆け。それをしかも意図的にするのであれば、どんなに良識面をしていても地獄に落ちるしかない者たちである。 つくづく外界との隔絶を、向こうのほうから固めてくれる。 仮象のなかに生きているとは、阿呆のなかに生きているとは、そういうことである。 この無関係さのしらじらしさを、ひとつの独特の快感として、優越感として感じるようになっているので、ぼくのなかで高踏的な安定感が育っていっている。 あの現象は、それがなければぼくが安住してまどろんでいるこの世の実相を、拡大鏡にかけたように知らせてくれることによって、ぼくの世界認識と意識の自由に役立ってくれている。