ぼくが本心から、どんなに人為的警句でやめようとしても していることがあるなら、それがぼくを形成している、ぼくの集中すべきことなのである。やめないで事実的にしていることが、ぼくの仕事なのである。 もうこの世の秩序とそれは合っていない。別の秩序でなされている。それでも、それがぼくのこの世の秩序(それなりに健康で建設的な生活)を壊すことをぼくは望んでいない。 神よ、御心のままに。 

 

 

世渡りのうまい者が生き延びている。 これは霊界次元でもそうなのであり、むしろこの世はその反映である。 霊界にもずいぶん手数をかけて、申し訳なかったという気持がぼくにはある(これは集合容喙と別である)が、霊界をも超越しよう。 そうしなければ神に出会わない。 霊界を相手にせず神を相手にせよ。 ぼくを捨てる神があれば、ぼくを拾う神もある。 これがイエスの経験したことである。  

 

 

 

 

 

この世で、馬鹿どもに寛容にしすぎた。ぼくが直撃すれば怪我で済まず、絶命することを知っているから、ぼくのほうは寛容にせざるをえなかった。 だから、ここでくらい言う権利がぼくにはある。

 馬鹿は けがらわしい と。     

 

馬鹿も、馬鹿の主張と弁明を言わなければ浮かばれないのだろう (それを感じるから寛容に言わせてやった)が、それだからこそ、馬鹿は存在それ自体が罪悪である。     

 

 

この世においては、馬鹿を耐え忍ばなければならないことを知っているほど聡明であることも、受難である。   強い者ほど忍ばなければならない。                   

 

 

 

出世向きにできていない天才というものがある。 なにほどか歴史に残っている天才というものは、まだ世俗の要素を残している者たちだろうと斟酌してみることができるのも、聡明さの基準となると ぼくはおもう。