ソラリスの海は、集合的容喙現象で想到する異世界知性体とよく似ている。人知の及ばない作用(造形)力と、とんでもない未熟さ(幼稚さ)とが、一体であることにおいて。 ところで、ぼくが薬を飲むという自己犠牲を払ったからか、自分に没頭してきたからか、なんとか現象と共存できるところまでいっている、というか、構っていられないのだ。そして、いちいちの現象に、ただ怒るよりも、向こうが反応したからには何か問題があるのかもしれないな、と、じぶんのそのときの行為をじぶんであらためて吟味して確認する契機にしている。 無駄な時間と思うことも多いが、自己調整の契機にしているのだ。 これはぼくの場合であって、一般化できない(しようとおもわない)ことだが、「思想をもつ」こと、「集中すること」が大事ではないか。現象が鎮静したときに自分がやりたいことを いまからやることである。それが主導権を自分がもつ核になる。 それをずっとぼくは、現象があろうがなかろうがすることとして やってきている。「仕事をもつ」ということはそういうことである。内的独立性を生きること。 いまさら読者にあらためていうことでもないとおもうが。 

 

   この現象はまったくさまざまな面があるという ぼくの基本的見解を、いろいろな報告からたしかめている。 さまざまおもうところはあるが、「思想をもつ」ということは個々の課題であるし、あまりことばにできるものは いまない。 

 

 

   書くことそのものが自己調整になる。