好意、友情、愛情、これらは各々ちがうものであり、その各々に即して感動がある。そういう感情の秩序は、純粋な者には明瞭なことである。そして、「神」という名づけがたいものに向かい面する内的感覚のある者のみが純粋である。「神」への感覚のある者しかぼくは信頼しない。

 

アランのいう「もの」とは、畢竟、「神」であり、「イデア」である。リルケの求めたものと同じである。「魂」、とぼくはいう。 

 

 

『 私は明治初年の熱心なクリスティアンだった母に育てられた。それでごく子供の頃からもちろん無意識に神を聞き神を考えるようになっていた。年頃になって「自分」を考えだすようになると、それは私の「スフィンクス」となった。今ふり返って思うと、自分が多岐多難の人生を経てゆくにつれ、自分の思念は一条の道をたどって来たようである。けれども私は「神」をかつて説明しようとしたことはない。 

 私は三十歳でフランスに行き、そこで三十年を過ごした。私の人間も思想もそこで形成された。そうして西欧の人間(の)経験の集積はいたるところに「神」を感覚させた。私はその中で長い間彷徨した。』 

             『高田博厚著作集 (III)IV』 ”忘れ得ぬ断章” より

             (「高田博厚作品集 福井市美術館」 抜粋)