「純粋さ」には、「飼い馴らされていない」という要素が本質的にある。その意味で、「純粋さ」と「野性性」とは、通底しているところがある。
純粋さも野性性も「独立性」であるのだから。 社会からの、そしてこの世からの。 これが「イデアリスム」の本義である。
それを証示しているところが、フランス人根性にはたしかにあると思う。 どんなに「迷い」のなかにあるとしてもである。
純粋でなければ直面できないものがある。 純粋になれるか、それが実存である。 純粋なひとには、野性的なところがたしかにある。 ぼくにもあるつもりだ。 あとは各々の副次的な処世態度の相違にすぎない。
現代人は、野性的といえば憧れるのだろうか。大事な本質は、純粋さでこそある。それがあってこそ野性性は えもいわれぬ魅力となる。
純粋さとは、ひとつの内的な仕事を課すものだ。
そのような人間の野性性、意識をもった人間の野性性は、野生動物の野性性と、どのくらい通底性があるか、測ることは難しい。 野生動物は、神に面しているか。 それは人間だけのものだろう。 神は要らないと言うことは、意識をもった人間において欺瞞であり、意識をもちながら意識を無視することである。それは最も粗野で無秩序な意識(自己)主張しか結果しない。それが現代のネイティヴ崇拝の人間の現実である。ほんとうに責任をもって突き詰めたものなどそこには何もない。突き詰めるべき課題を放棄した安易で、そこだけはプリミティヴな恣意的自己主張しかないとぼくは思う。 ぼくがこういう言い方をするのは、その種の人間からの、不快で無礼な、全然純粋さとは縁のない経験があるからである。