ネル・ノディングス(1929-)という女性哲学者のケアリング論というものがある。そのなかで対人関係におけるケアリング(caring)とケアギヴィング(caregiving)を区別している。教育学・教育実践に活かされる区別であるが、ケアリングは対等な双方向関係において他者の本来的自己を創造的に見いだし育ててゆこうとするのにたいし、ケアギヴィングは一方的にケアを与えてゆこうとするのであり、ノディングスは後者の態度を批判し、教育は本来ケアリングでなければならないとする。詳論しないが、昨日の地元哲学会で興味深かった話題の一つであり、自らのためにノートしたのである。 

 

〔昨日の発表者の方のレジュメから一文引用させていただく:

『「道徳の時間」については、現行の道徳編の指導要領及び指導要領解説を見ると道徳的価値(徳目)の羅列が見られ、「議論する道徳」を謳いながら、ある副読本の指導書では「ねらい」のほとんどが特定の「心情」「心」「気持ち」を「養う」「培う」「育てる」と表現されているのが実態である。ここに矛盾があるとは言わないまでも、ともすれば紋切り型の平板な説教に堕する危険性もあると思われる。重要なことは、道徳の授業を生徒の日常生活、日常感覚から切り離さないことであり、テキストや教材を用いる場合でも、身近なケアリング関係に基づいて教師も生徒も共に吟味、熟考してみることであろう。ノディングスも、抽象的な思考実験において、原理原則を適用して問題解決を図るような道徳教育・・・を、「私はいかにすべきか知っているふりをしなければならない」ような「ゲーム」だとして否定している。

 ノディングスによれば、従来の道徳教育は・・・道徳的推論の優位性に基づいており、それは動機づけに重きを置くケアの倫理によって取って替わられなければならない。』

 さいごの「動機づけ」はこれだけでは直ちに意味は判然としないだろうが、抽象的一般的な当為(…すべし)と対置させられる、個人の具体的な内面的促し(…せずにはおれない)ということだろうとぼくは思う。〕

 

 

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これとは別に、さきほど偶然見いだした言葉が、やはり同じ精神態度であるとおもうので、別の人の言葉であるが記す: 

 

≪自分のスピリチュアル・ヘルパーを、人に押し付けてはいけません。特に、相手が助けを求めてきたときには、その人の不安定な状態を利用して宗教的祈りを捧げたりしないでください。たとえば、「イエスよ、この者の人生に来たれ」などです。あなたには、人の宗教に介入する権利はないからです。≫ 

 

これもやはり西洋人の言葉である。日本人にはこういう確固とした確言はなかなかできないし、断定口調で言っていても本物でなく偽物である。自分の人生を煮詰める密度がちがう。