テーマ:自分に向って
禅の「殺仏殺祖」の言葉は最近あまり聞かないなあ。 それより優れた態度は「照応と対決」だ。精神は通底している。 私の読者にこれ以上詳述する必要を感じない。
ぼくが前の欄背景として使っていたサントリーニ島の海とローランの海が重なるとは! 自分の感覚に正直であればすべては重なりあい収斂して一元性において再認されてゆくのではないだろうか。 そうして自分のその一元的実体に応ずる〈窮極の当体〉に、感覚の事実として会遇するに至るのだ。これがほんとうの「古典精神(クラシック)」の意味である。それは真の意味での「人間の高貴さへの愛」だ。すべての真実の美は同時に「人間」を触知させる。「自己」をしっかり据えること。でなければ美をとおしてその人を愛しようがない。この自己は、まちがっても〈関係における自分〉などではない。 ローランと彼女の演奏がそれを、「美をとおしての人間愛」をたしかめさせてくれた。(どんなものでもそうである。そうでないものはただ不明確な印象でおわってしまう。そして「人間」を感じさせることは〈神なき自分暴露〉とは何の関係もない。メタフィジックへの志向のないもの、例えばシュルレアリスムの或る種のものは、醜の開き直りでしかない。 「人間」はつねに「神」とともに在る。「神」もまた「人間」とともにのみ在る。両者をけっして分離させてはならない。これはものすごく重要な核心的な気づきだ。)
ぼくはいま、気に入られることではなく、ぼくからみて相手のためになることを、他者への行為の原理に意識的にしている。
「良識(bon sens)」を磨く、この古典的なこといがいぼくはやっていない。
(522節最後とも関係するが、)自己との対決を要する精神営為(創造営為)に比べたら、政治的軍事的世界制覇でさえも〈遊び〉〈気晴らし〉に思える。だからこちらに傾く者が多いのか? だからぼくは後者ではなく前者を自己の本道として選んだ。 本性的に哲学者であると同時に境遇的に保守的政治家であったメーヌ・ド・ビランが、前者を「内的人間」、後者を「外的人間」という次元に分けたことを思う。
「(内的)人間」に留まることが最も真剣なことである。