創造とは、感じ愛する本質を磨くことである。自分においても相手においても。

 

 

ぼくは厳密であるから、他者にも厳密であるとはいえるが、他者のなにに厳密であるかというと判断言表にたいしてである。これは厳密であらざるをえない。厳密でないと人間の路を誤るからである。これにいいかげんである者が多いが、そのつけは大きい。ひとつの判断をうけいれるかうけいれないか、これは魂の死活問題である。判断問題のこわさはここにあり、真剣で厳密であらざるをえない。 判断せずに意志決定だけするのがよい、明瞭な判断が形成できないなら。ここにまさにデカルトの良識練磨の道程における苦心があった。

 

とくに他者への判断言表は控えに控えないと、いかなる関係も破綻することになる。これはたいへんに厳しい人間現実である。

 

 

信じることと創造することは同じである。信じること、信仰、とは、感じられる可能性に心を開くことである。ただ無思慮に開くのではなく、思慮ある開き方をすることである。開くことが自分の自分への同意でなければならない。 

 

距離があるのならそれが「縮まってゆく」ことも「創造」の過程である。思慮をもって。人間の真質のすべてがそこにあらわれる。 強制や鎌かけで〈縮めよう〉とする「人間」などありえない。 働きかけるのではなく、共に在りつつ感覚と思惟で互いに同化してゆく過程、参与しつつ待つ過程を心得ているのが思慮である。 

 

厳密であることと信じることとは同じことの表裏である。 

 

 

 

ぼくはいかなる経験も我有化し(記憶と思想にし)本道に復帰しよう。人間は、ではなく ぼくは。 一般論ではなく決意である。 「心を開く」とはそういうことであり、路を逸れることではない。 〔じつに然り。〕 

 

体は精神を妨げず どうにかなる という信を ここに付加しよう。   

 

 

 

 

 魂はあつく、操作は客観的に