《ロダンが十五歳のときに彫刻家リュードが死に、厳正写実主義(レアリスム)の闘将クールベが大個展を開いている。二十三歳のときにドラクロワが死んだが、同年、印象派結成の動機となった落選画家展があって・・・
・・・ロダンは、その人間としても、またその作品においても、この時代の全要素を持っている。この孤峰、これをえるためにフランス彫刻が数世紀を待たなければならなかった天才も、彼の時代と同様、偉大さ、動的生命、内部から躍動する力と共に、”過剰”なもの、”一元的”であると共にこれに背反する”多様複雑”なものを持つに至ったのである。そうして、彫刻のこの巨人が出世したのは、絵画における一大山脈モネ、ルノワル、セザンヌ、ゴッホたち印象派(アンプレッショニスム)の出世と同じ時期であった。(一八七四年の印象派第一回展の際、ロダンは三十五歳。第二回展のとき、三十六歳で「黄銅時代」を作った。)》
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リュード
Rude, François
[没]1855.11.3. パリ
フランスの彫刻家。生地の父の金属工場で働いていたが,1807年パリに出て彫刻家を志し,1812年にはローマ大賞を得た。しかしナポレオン1世の崇拝者であったためローマ留学を断念し,ナポレオン失脚後はベルギーに亡命。
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高田先生の叙述に、ロダンの生家のあたりについて、《パリでいちばん古いサン・ジャック通り・・・通りの西側には、古いソルボンヌ大学やリュクサンブール公園や美しい天文台があり、・・・通りの東側、パリでいちばん美しい円頂(クポール)のあるヴァル・ド・グラース尼院の裏手は、・・・》とある。
ヴァル・ド・グラース(val de grâce)女子修道院の円頂(クポール)。
上三枚の写真の一番下は、ホテルの窓か撮られたソルボンヌ聖堂。ぼくの最初のパリ旅行で泊ったのと同じホテルだろう。眺めがまったく同じである。目の前にして「こういう大学に行きたかったな」と心で思ったのだが、やがて現実にぼくの大学となるとは夢にもおもわなかった。
La Sorbonne
chapelle vue de la Cour d'Honneur
これはぼくの手持ちの絵葉書写真から
広場から見たソルボンヌ聖堂。同区(5e)にあるヴァル・ド・グラース教会堂とあまりによく似ている。既述の同じ通りに建物が接してもおり(前者は正面がソルボンヌ通りおよびヴィクトル・クザン通りに向いている)、いちど見間違え、「どうしてこんなところに…」と不思議な感情になった記憶があるように思う。
忘れていたパリの記憶をすこし思い出した気分だ