スピノザ的に、唯一の神の意識しか存在しないとすれば、そしてこの唯一の意識の自由しか稼働していないとすれば、われわれが各々いかに自由に行為しているつもりでも、唯一の神の自由のわれわれ各々における現れにほかならず、各々の自由の間に共時的な一致や符合が生じることは、神がその気になればいつでもありうるだろう。それどころかそのほう(共時的なほう)が、唯一の神にとって謂わば自然で単純でやり易いだろう。普通は、神はその「やり易さ」をわれわれのために敢えて控えているのかもしれない。神が自らを示そうとするとき、われわれにたいするその「配慮」を引っ込めさえすればよい。そのとき、現象相互の驚くべき共時性によってわれわれは、神の実在を感知するのである。ただしこの神は、創造主としての神であって、ぼくの理念における神ではないだろう。
 科学技術者が自然法則を応用して兵器を稼働させるように、神の自由の方程式を知っている悪魔が、神になりすまして共時性現象を、或る意図をもって起こしているのかもしれない。神よ、寛容にするのもいい加減にしなさい、と言っても、太陽の方程式による核兵器使用をも許した神は、汝らの好きにさせておる、と答えるかもしれない。

想像しうることを想像してみた。





事実の記録
ぼくはきょう(12日)、これまでみた憶えもない夢をみて、何の意味があるのだと不審に思っていた。家のなかに犬の親子が入ってきていて、狐も一匹入ってきていた。だいたい、この種の動物が夢に入ってくることはないのだ(猫ならみているが)。狐は、ぼくがしつこく追い出そうとするので、しまいにはぼくを睨んでいたのをかなり強い印象で覚えている。犬の親子のほうは平和的でなかなか感じがよかったが(しかしどこか野良っぽく可哀想な感じだった)・・・ 夢というのは起きると普通どんどん色あせてしまうものだが、きょうのはかなりイメージがよく残っている。そのあと、きょうのニュースで、きのうときょうにかけて、羽田空港で何頭かの犬がはいりこみ飛行機発着に支障をきたしたという報道をはじめて知った。

これも、唯一の神における出来事が、多様な個別域において様々であるが或る一致性、符合性をもった出来事として共時的に起こることの例だろうか。





それにしても、ぼくが起きているときに起こる日常的共時性現象は、ほんとうにわずらわしいですよ! 度を越している!!





巨視的にみれば、人類史上、四古代文明地域でだいたい同時期とみてもよいような時期に人間意識の飛躍的開花が起った現象を指してヤスパースは「軸の時代」とよんでいる。これも広いいみでの共時性現象だろうか。その中心人物たちは、ソクラテス、イエス、仏陀、孔子である。





すべての感謝を忘れてじっくり自分の世界に浸ること。




普通の身体のある者たちにどうしてぼくが気を遣わなければならないのだ。




13日

一般民の道徳と貴族の道徳とがある。一般民の水準を突破する者は倫理も別様となる。一般社会と一般霊界はこれを言わない。貴族はみずからこれを悟らなければならない。一般民は一般民であるかぎり貴族を識別することはできない。貴族は社会においては本質が隠れた者として自ら隠れた生を生きる。成長した貴族はもはや一般社会にたいしてうぶな負い目を覚えることからも卒業している。貴族は感謝などよりもっと高い真の徳を知っている。すなわち自己愛。一般民は自己愛を想像すらできずエゴイズムを持つだけである。

エゴイズムしか知らない一般民には感謝を教えよ

貴族は自己の本性である自己愛をみずから悟れ



裕美ちゃん、ぼくはきみがきみの音楽に感動する聴者に感謝する気持をよく知っている。きみの魂の媒体は音楽だからね。ぼくでも、演奏ができれば きみのような演奏しかしないだろう。ぼくの媒体は文字であり思索を介するから、それをうけとめる相手の事情も異なる。

しかし、ぼくたちのほんとうの本質は貴族なのだよ。そうでなければけっしてほんとうの感動は生めない。きみの本質は貴族であることを認めて、ぼくははじめてきみを納得できる。貴族には貴族の自己倫理があるのです。ほんものの貴族はすくないですよ。ぼくの文章に感動できるのは、ほんとうの貴族だけだ。きみは、きみの音楽が生めるということが、きみの貴族である証なのです。

〔きみの演奏はほんとうに「頭の良い」ひとでなければできない演奏だよね。理屈をこねる利口馬鹿にはぜったいできない(死んでもできるわけがない)。〕









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ぼくは周囲の者共の与り知らぬ思いを抱えて誰にも言ったことのないことがある。ぼくが父と「和解」したのは、父が死んだ(朝に死んだことを言った)日の夜、ぼくひとりで遺骸の番をして明かしたときだった。「ようやく親父と平和に過ごせるようになったな」と、神々しい顔になった父に言った。こういう平和な関係になりたかったのだ。昔の記憶がよみがえる度に、おだやかならぬ気持になることが多いが、そのときは、これで葛藤もおわったと思って安らかだった。
 あの死顔は撮っておかなかったのは残念だ。仏間に納まっている生前の顔は、なかなかいい顔をしていると以前は思っていたが、いまみると、「こいつはだめだ」とはっきり感じる。ますますみるだけでむかつくようになってきているので、最近はみないし、破り捨ててやろうと本気でおもっている。人間はこういうことではだめだという、根源的な反感と敵意を覚えさせる顔である。こういう者であるかぎり、にどとぜったい縁をもちたくない。ぼくは父親とは何ひとつまともな会話ができない家庭で育った。母が家庭のすべてだった。周囲の愚か者俗物共でぼくの気持を察しうる意識の者は皆無である。取りついた霊どもの程度もわかるというものだ。

 ぼくにとっての父親は、あの、死んで俗性が洗い流された、神のもとにかえった顔の親父である。

臨終間際の父からがぼくの父であると言うべきかもしれない。ぼくは父を看取った。ぼくに何でもいいからなにか言ってほしいと無言で必死で伝えてきた。物質主義だった父は最後にぼくの言葉で霊魂不滅を受け入れた。母に会えるのをたのしみにせよとぼくは言い、父はうなずいた。それから父の霊は口から出ていったようなのと同時に父は息をひきとった。あの神々しい死顔は親父の最後の心境を顕していたものだったかもしれぬと、いまはじめて思っている。それならぼくも最後にほんとうの親孝行をしたのかもしれぬといまはじめて思っている。