現代、谷口隆之助や高田博厚の生きた「孤独」の境位に、与りも予感もせぬような大衆(孤独を知らないのが大衆の定義である)が殆どなので、「美」のほんとうの感得も意味もわからなくなってしまっている。真の孤独を知らない「豊かさのなかの貧しさ」。歩いていても〈すまほ〉にかかりきりの大衆に、美感が働くわけがない。人為意識と人工物を捨てて孤独のとば口に立つ。大衆は、そこにゆかない者の謂いである。美とは、つぎのようなものである。一瞬にして救われた。機械は、美醜の判別はできない。判別形式に美は掛からない。いまぼくが得た教訓は、美とは人格美であり、この判別は人格である人間にしかできないということだ。(機械のみならず)人格になっていない大衆にはできない。だからかくも無残な〈画像〉が醜美の別なく羅列しているのだ、この機械検索欄には。醜画を恥なく提供する大衆の責任、人格責任である。「倫理」に反する醜行である。美醜を判別しない無秩序は、反道徳の別名でしかない。それが全くわからない大衆に、分野の別なく堕落したのが、いまの日本人なのである。「昔は美の規範を会得している立派な国民だった」、と言うのは、高田博厚であるのである。ぼくはつぎの美に一瞬で救われた。美は精神と人格を救うものである。精神と人格は、「神へ向かうという秩序」であり、この「人格の精神秩序」が、「人格美」として現前するところのものなのである。つぎの美は、「人間」の人格美である。人格美が顕現している。「人間」が、「向かうところのもの」によって「神聖」であり、神を示現している。これが「人間美」であり、「フランスの美」である。「人間」が生んだものであり、「魂の示現」である。




覚書 愛と神 補筆シャルトル聖堂  ( 


 

かつて呈示したこの天使像をひじょうに感じている。精神の秩序にもたらされる。


 

あらためて紹介、上はランス聖堂の壁面天使像である(高田博厚における「触知し得るイデー」二十三 より)。ぼくが現地で撮ったものを拡大したので写真としてはぼやけているが、その精神はそういうことをもちろんまったく問題にさせない。
 下は検索画をぼくが仕上げたシャルトル聖堂光景。ふたつとも、なぜこう気高い神聖なものへ人間を一瞬にして浄化する力をもっているのだろう。しかもその崇高さがかぎりもなく親密で懐かしくあたたかい。

 知性をきわめた崇高な素朴さ・・

 真の「人間」と「神」が直接に香る

いまちょうど22日真昼正午である


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高田博厚は、聖堂美に、「人間の生(いのち)」に打たれたのである。谷口の、「生(いのち)の体験」と変わらない。「いのちあるものが打った」のである。


あらゆる創造芸術の美は人間の魂の、人格の表出と実現の美である。自然美すらも、人間が感応する美として、人間の魂美の示現である。