「羞恥」論で「哲学的良心」に触れたことからも、どうしても「良心」論を、絶対的意識の要として訳出しておかなければならないという、必然的義務のような内的促しに押されている。絶対的意識の「運動」に分類されているが、「良心」は本来、絶対的意識という人間意識の最も内面的な働きの中核の問題であるはずである。落ち着いた雰囲気で真剣に訳そうとおもう。はじめて学ぶように我有化し、そして自分を解放して本道に回帰しようとおもう。より一層自分の芯を確かめたぼく自身になっていることを期待しながら。〔それにしても早く訳して自分の実存になりきることがぼくの本心なのである。しかし魂の籠った自分の「経験」となる訳のみぼくはできる。〕



根源における運動 〔1. 非知、2. 眩暈と戦慄、3. 不安、4. 良心〕

4. 良心

非知が、そこからあらゆる可能性の根源が働く転回点であり、眩暈と戦慄が運動へ押し迫り、不安が、紛糾した自由のなかで根こぎにされるかもしれないという意識として、自ずから、私自身を、私に贈与されるものとして生じさせるとき、良心は、転回点に際しての声であり、運動のなかにあって識別する こと、そして決断する ことを要求する。

a) 良心を通しての諸々の運動

良心において、私自身 であるところのが私に話す。この声は単純にあらゆる瞬間に現存しているのではない。私は、その声の微かな覚醒作用を聴取するためには、耳を傾けることができるのでなくてはならない。私は、その声が沈黙している時には、不確定な状態で待つことができるのでなくてはならない。その声の要求はそれから再び、拒否し難く現存するようになりうる。私はその声を大きく聞き、私がその声に逆らって行為しようと欲すると、その声を減殺するのに苦労する。それは、私の存在が引き裂かれた状態での、私と私自身との交わりであるかのようであり、私の経験的現存在が私の自己存在の根源から語りかけられているようなものである。誰も私に話しかけているのではない。私自身が私に話しているのである。私が私から離反することがあり、私に味方することがある。しかし、この自己、私がそれでありうるはずであるゆえに、本来は私であるこの自己は、すでに現存しているわけではなく、〔絶対的意識の〕運動において私を自分で導くようにと、根源から〔の声として、私に〕語るのである。この自己が沈黙するのは、私が正しい運動にあるときか、あるいは、私が自分をまったく喪失したときである。
 良心において、私は私にたいし距離 を持している。私は、ただ与えられて消耗されるだけの一個の現存在としての私には墜ちていない。私は自分に介入し、現存在のなかに、それが私次第であるかぎりは、私自身であるものを生み出すのである。私の現存在と、私にはまだ開顕されない私の本来的自己存在との間には、現実であるものとして良心が立ち現れる。この良心に基づいて、私にとって存在となるはずのものが、承認されたり拒絶されたりせざるをえないのである。
 良心は「要求するもの」であり、高揚〔した瞬間〕においては、存在を、真理の意識とともに把持させる。良心は「禁じるもの」であり、私が存在を失うかもしれないというときは、途の中に立つ。私が為すべきではないすべてのことは、しかし、私が肯定的(positiv)に為すところのものを通してのみ、真理〔の性格〕を持つのである。否を言う良心は、私がそれに従って自分に〔或ることを〕禁じるとき、肯定的良心の腕なのである。しかし、肯定的なものとしては私と合一する良心は、私と不一致であるような禁止する立場である場合こそ、より一層感じとられるのである。したがって良心は、分裂状態が固持されている場合の声としては、〔当然、〕本質的に「否」なのである。ソクラテスのダイモニオン(神霊の合図)は、ただ諫止でのみあった。それどころか、私が、外部からのように私に届く良心の声に基づいて為す肯定的な行為すら、その行為において、自分との一致に至る自己存在の絶対的意識の充実がないかぎりは、空虚であるに留まるのである。つまり、このような肯定的行為すらも、否定性の性格を保持しているということである。しかし、もし、良心の声が、現存在において私と一つとなり、もはや語りかける必要もなく、私が私自身であるゆえに沈黙する場合には、「自由」は「必然性」となっており、「欲する」(Wollen)は「為さざるをえない」(Müssen)となっているのである。

b) 良心の基準

良心は、善と悪との間で識別する よう要求する。しかし良心はただ法廷(Instanz)であって、〔実質的なものを〕生みだす根源ではない。良心の基準は、したがって、ただ、満たされた絶対的意識から、愛と信仰からのみ、内実に満ちた(gehaltvoll)ものとなるのである〔上で傍線を引いた箇所でもそうであるが、ヤスパースは、カント的な形式倫理の不充分さを、絶対的意識に基づいて批判していると解すべき論述を至る処で為している〕。識別する法廷として、良心はつぎのように形式的に言表され得る:
 「私が為すところのものは、世界一般 がそうであることを私が欲し得る ようなものであるべきであり、それがどこでも起こらねばならない ようなものであるべきである」、と〔いうまでもなくカントの道徳律命題のヤスパース的換言である〕。良心において、「一般的に存在するもの」として恒久的に私が「然り」を、それに言い得るような存在が、私に示されるのである。
 私は良心において、そのような世界一般に眼を遣りつつ、私を私の歴史的所与から、束の間この所与を問いに付すことで、解きほどくが、しかしやはり私が生みだし得るのは世界一般ではなく、ただ歴史的世界のなかでの私の存在のみであるのだから、良心それ自体の問いが生じ、それはつぎのようなものである: 良心は、どのくらい、始まりなき自由から、つまり、歴史性に自らを結びつけている自由 から、〔何事かを〕実現しようと欲するのか、と。良心が決断するための基準となるのは、引き受けることになる歴史的根拠の内実 である。

〔原文は、込み入っていると同時に簡潔すぎる面もあり、これだけすっきりと訳出できたのは、ぼくがはじめてではないかと、比較したのではないが過去の経験から、感じている。理解できた限りでしか訳せない。当たり前のことであるが、プロの学者でもというか、それだからこそというべきか、時熟していないものを無理に訳そうとして横着な観念性をひねりだし、どうだ難しいだろう、と、それしか誇れないような異訳をつくりだす、恥ずかしいことだ。学問教はぼくは御免である。〕

 無時間的な理想は、時間的な歴史性へと限定され規定されて、つぎのような「良心の基準」となる、すなわち、「私は、私が私の行為においてそれであるところのもので、永遠にあることを欲する」、と。私がこの基準を、永劫回帰のなかでの反復への用意ができていることとして言表するのであれ、私が一切のあり得る結果にたいする責任を一緒に引き受けるつもりでいるのであれ、私が現象としての行為において、そこに自らを開顕する本来的存在の表現を読み取るのであれ。

〔カントの道徳法則倫理が、いかにしてヤスパースの歴史的決断と実存の倫理に移行するか、最後の二段落は、じつに見事に感得させる。よく意識了解されるべきであると思う。〕


(II. 268-269)