この不安定な時間現存在の只中で生きることにおいては、愛の経験は決意となり、創造的忠実の源泉となる




 〔哲学的表現は、それ自体のためにあるのではなく、本来的生を創造的に持続させるための意識観念である。〕





  ――きょう3月3日はアラン(Emile-Auguste Chartier, 1868-1951)生誕日――
     彼の思想に同調したのではない。堅固な人間精神の発見に驚嘆し打たれた。
     思想というものは、なんというかけがえのない人間創造物であろう!
     人間が思想の主(あるじ)であるかぎりにおいて。

     この意味での ぼくにとっての独特のあまりの親密さのために、彼の影響の大きさについてぼくはいまでも甚だ無頓着である。むしろフランス本国における彼の存在性が伝わらないほど、日本哲学界は彼を受けとめる力量がないゆえ彼を遮断してきた。本格的な研究など(日本では)もちろん為されていない。フランス本国での研究成果も伝わって来ていない。〔彼の「幸福論」ばかり云われるが、彼の全思想の基礎となっている彼の独創的な哲学論、デカルト論と格闘しないのだから当然だ。 アランにかんしては、メーヌ・ド・ビランと同様、仏語圏外、独英語圏においても、事情は似たような拙劣さにあるようであることを ぼくは感知している。それだけ、フランス思想は、他国語圏には伝わり難い奥の院の伝統を蔵しているということである。〕


73 哲人アラン像 1932

アランみずからこのんで自分の在り方を形容して云う「リュスティック」(rustique:ひなびた田舎的)な様子と、「人生の苦労人」の様を、よくあらわしている。




アランとヤスパースによる思惟修練の上に、ぼくの高田博厚論述はある。 (〔全人的教養が欠けており、だからその手の者が引っ掛かる〕ハイデガーやサルトルを問題としない。)




日本の憲法新草案は、「人間」主義的基礎が不充分であるので、「国家」主義的発想に拠っている。「国」はなんのためにあるのかという発想が不充分で、そのために国そのものが自己目的化しているということである。「個人」を「人」と言い換えているところに、それがよく示されている。つまり、「人間」というものをつき詰めてかんがえないことにする、ということである。日本では、「個」という存在の理解が、保守でも革新でもしっかりしておらず、同じ土俵の表裏とおもえる。だからこの概念そのものを曖昧にしてすまそうということになる。理想(理念)なき現実主義なのである。
 「理念」と「現実」をつき詰めて引き受ける(「気概」はそこからのみ生ずる)政治者も学者もいない。「自分」を培っていない(通俗関係性のなかだけで生きている)から当り前だ。個々人が「人間」となる道を踏んでいないで〈個人〉や〈国〉を〈論じ〉ている。




 
  
 
 



生者と同様に死者を愛し、死者と同様に生者を愛するとは、どういうことなのか。これは自分についても言えることなのである。ぼくは生と死とであるのだから。



なぜぼくのような人間がほとんどいないのか。それがぼくにはふしぎなのだ。なぜ他者にたいし現実に加害行為をくわえるのか。どうして自分の意識で自立していないのか。