「実存開明」の「自由」論(第六章)において、本来的自由は、時間的規定性における実存的選択として開明されている(*)。時間的に規定された状況において我々には無際限な熟慮は許されず、究極において無根拠な直接的決断に基づいて行為を敢行しなければならない。このような実存的選択において本来的自己確信の超越的贈与が経験される。これはさしあたって内面的な経験と見做される。そして時間的に規定された選択状況における行為は、状況を、その帰結や意味連関が不可測なまま実存的に引き受けること、把捉することに他ならず、その都度の規定的状況を限界状況として経験することに他ならないであろう。規定的状況を本来的に限界状況として見るためには、実存的選択の時間的規定性という観点が更に付け加わることが必要であり、また、選択の決意の瞬間における、いわば形而上学的内面経験が、どのように、先に述べられた包越的選択によって把捉された包越的状況に、いわば反映されるか、を見極めることが必要である。この内面経験の反映を通して、状況は超在を指示する限界状況となる筈である。即ち、この内面経験は観想的神秘経験ではなく、世界内行為における経験である故に、状況への能動的参与を離れては、つまり能動的に参与される状況を離れては、全く考えられないものであり、従ってこの反映は、今や、主体内面と状況との根源的関連の示唆を含む表現として受け取られる。――
 さて、限界状況経験の中に実存的交わりの必然性の経験が含まれることが最も端的に表明されているのは、己れの歴史的起源(Herkunft)を限界状況として語る箇所においてである(II.215f.)。己れの起源は、史学的・生物学的知識として本来的に捉えられるものではなく、「歴史的根拠として見極め難いものの中へ没してゆくもの」、それ自体完全に明瞭とならないものでありながら自己存在の可能性を制限するような「何か或る客観化不可能な変化させられ得ぬもの」であり、自己は「己れの起源によって既に生成してから起源を意識する」ことにおいて、限界状況としての起源に能動的に関係する。この場合自己は己れの起源に対して「忠実を通して自己自身であるか、或いは拒絶することによって自己自身を失うかである」とヤスパースは言い、このような歴史的規定性としての起源の内に「己れの両親」との関係を含ませている。可能的実存として覚醒した自己にとって、己れの両親との関係を己れの歴史的規定性に属するものとして引き受けることは、やはり可能的実存に他ならない両親との関係を実存的なものへ変化させること、即ち彼らとの実存的交わりへ決断することである。――


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(*) 「実存開明」第二主節「自由としての自己存在」の枠に括られた第五章「意志」および第六章「自由」は、最も基本的かつ深淵な叙述の一つである。「選択としての自由(決意)」- Freiheit als Wahl (Entschluss)- の開明等に細かく分れる。これに関するわたしの他の論考も紹介する機会があるかも知れない〔未定〕。


 ヤスパースは、己れの事実的な歴史的起源を、上述のように、「引き受けるか拒絶するか」という二者択一的な強い態度で迫るような「訴え掛ける」叙述を意識的に故意に為している。実存覚醒的な触発的態度を、本質的に簡潔な叙述のなかで試みており、これ自体が彼の「開明」 -Erhellung(エアヘルンク)- という意識的思惟の性格に属する。実際には、「拒絶する」ことが個々の要素に面しては積極的に実存的である場合が多々存することは言うを俟たない。そのあたりは読者がそれこそ実存的な良識をはたらかせなければならない。



主題とはまったく関係ないが、ぼくはどうして、「実存的交わり」という言葉がしめしているような人間関係性に入りたいような相手にひとりも巡り会わなかったのだろうか、と殆ど不審に思うと同時に、それが普通なのではないかとも思う。社会生活上強制された人間関係も、その強制性が解かれたら、なお本音で関係を維持したいような人間などどれだけいるだろうか。しかし、ぼくの場合は、ほんとうに、ぼくにふさわしい相手を見出さなかったのである。ぼくが付き合いたい水準に達している者となど出会わなかった。辻邦生でさえそうだったのである。実際、彼は「あなたにたいしては僕は自信がありません。」と書いてきた。これは忙しい創作者の体のよい厄介払いの台詞であるとぼくは思っていない。どういうひとならぼくは納得しただろうか、ぼくはその原形直観を自分自身に見出すのみである。ヤスパース、マルセル、高田博厚級の人物でなければ無理である。その周辺の者達でも既にだめなのである。付き合うには自分を偽らなければならない。苦しく続かない。どれだけ物を識っていてもそういうことは深みとは何の関係もないのである。ぼくはいったい何者なのか。もっとも謙遜な性根においてぼくはそれを自分に問うている。そのぼくは、いま、彼女の響きと様子から、彼女を尊敬している。そう、人間の深みとは、そういう隠れた、しかし感じる者には感じるものなのだよ。




つまらぬ者たちは自分のつまらぬ感受力がおよぶ、それに映る印象にしか反応できない。連中は自分の像をみているのだ。そういうものを真にうけるいかなる義理もないのに、自然で無反省でいると印象力をうけてしまう。人間が平等なものか、おまえらを軽蔑する、と、自分に絶えず言ってきかせなければ、自分の尊厳をすべてうしなってしまう。社会はほんとうのこととはいつも反対のことを言いきかせようとする。〈学識者〉すらそれに加担している





公開した(している)ヤスパース論考のうち、包括的な「交わりとしての真理の意味と限界」のほうは数的に目立った反応があるようだ(昨日「一」17接続)。現在見返しても、この考証は堅固なしっかりしたものであることを思い出す。思想構造的にもよく捉えている。彼の哲学は「実存理性の哲学」などととらえるのはまだよいほうで、「両極性」を解消しようとする学者も日本にはいるから、それがどのくらいヤスパースの本旨と反するものか、文献的に実証している点、いかなる捉え方をすれば彼の哲学が生命ある(lebendig)ものとなるかを示している点、これはぼくが学問的に遺している貴重な資料である。「実存における非理性的なもの、その超理性と反理性」という主旨で日本ヤスパース協会大会で同内容を口頭発表もしている。