まだまだみんなきれいごとを言いすぎる。核心部分で的中したことを言って自覚していても、その周辺部その他では雑駁で世間迎合的だ。ほんとうに緻密に一貫していない。きれいごととはそれだ。デカルトの「仮の道徳」のしたたかさはありようがない。「異端でなければ精神の意味はない」とアランが言ったのはそのことである。
精神の純粋さつまり一貫性は いつも深いラディカリズムであり、世間にたいしては 徹底してしたたかな戦略的意識でのぞむことになる。日本は「純粋」=「世間知らず」と混同し、純粋な精神の意志的覚悟と策動的意識のこわさを知らない。 先生は、「坊ちゃんでなければ純粋でありえない」という一般の思い込みを、「それが日本の特徴なのだ」と斬った。
純粋は、表面で従順を装いながら意識内で自己と社会を対峙させこれを持続しつつ生きる強靭な自我意識を形成する。純粋はこのデカルト的知性あって実現するのである。 先生の言う「拒否する力」「沈黙する知性」とはこれだ。けっして俗に染まり得ない純粋精神が発動展開する知性力は、ほんらい社会にとっていちばん手ごわいものである。
同日翌朝
「666 マルセル「形而上学日記」一節 」が、昨日の個別節接続最多(17)だった。時々こういう予想外の、読者が全く自ら検索してくれた結果が出るようになった。ぼくはまだいろんなことがやりたいのであることを思い出した。自分の力を顧慮しないでだが。この意欲は生死を超えている。
それから、これは他欄(古書店関係)よりお借りした:
ヤスパースの原著。左から三冊「大哲学者たち」、つぎに「啓示に面しての哲学的信仰」、「マルティン・ハイデガーへの覚書」、「カール・ヤスパースの思い出」、そして千頁を超える後期主著「真理について」。右に三冊括られているのは前期主著「哲学」三巻本だろう。 嘗てのまま充実している現役本ですね。奇しくも今年はヤスパース・ルネサンスの企画が外国であるとか。