ジョルジュ・ブラックに私は数回会っている。戦前ベルネェム・ジューヌ画廊で彼の個展があった時が最初だった。キュービスム風から即物象徴風に移った頃で、今日から見ると彼の最頂期だった。彼自身、一つの転機に来たと思うから展示してみたのだと話していた。色彩が澄明になり、黄や紫系が深い魅力を持っていた。
ブラックはアルジャントゥイユ生れだから生粋のパリっ子だが、骨組の頑丈な、背の高い、陽焼けした、漁夫か石工のようで、彫りの深い面長の顔はノルマン人を思わせる。彼も後半生のほとんど半分はノルマンディーの英仏海峡よりの別荘にいた。フランス画家を大西洋系・地中海系と分けるのは漠然とした感じだけのことだが、ブラックはむしろ大西洋系、ブルターニュ、ポン・タヴェン出のゴーギャンに通じるある憂鬱さが彼の作品にもあり、これが晩年のものに一層強く出ていた。彼の素朴さ、これは彼ばかりのものではない。日本の作家のように、構えがあり世間的地位が後ろにひかえているような芸術家に、私はフランスで会ったことがない。いちばん紳士的なマティスでも、まず打たれるのはその率直さだった。ブラックでもドランでもピカソでも皆明けっぱなしだった。余談だが、私がフランスに着いたばかりでテュイルリー協会招待会員に推された時、ともかく礼儀上当時の会長のアマン・ジャンを訪ねた。彼の絵がよかれあしかれ、フランス画壇の長老大家だ。それが小僧の私を汚いアトリエに迎えて、まるで同輩のように話し合う。アンデパンダン会長のシニャックに会った時も同じだった。彼が愛蔵している三十号台のセザンヌの前で、抱き合って感動した。
展覧会場で一度会ったきりで、その後ブラックと私に交渉はなかった。フランスで私はずいぶんいわゆる大家有名人と知り合いはしたが、それで交際することはなかった。これは私の孤独性から来ていよう。戦後ブラックに再会したのも、たぶん日本からなにか依頼された用件のためだったろう。あるいは、それ以前に彼から素描感想集を贈られていたのかもしれない。来てくれというので、はじめて彼のパリのアトリエを訪ねた。
パリの南辺、ポルト・ドルレアンとポルト・ディタリーの間の環状道路(ブルヴァール・エクステリウール)沿いに大学都市(シテ・ユニヴェルシテール)とモンスーリ公園が向い合っている。公園はナポレオン三世時代のイギリス風庭園、それの左傍の道の途中にドゥアニエ通りという路地があり、高級アトリエが十軒ばかり列んでいる。これは公園の向い側の、ジプシー(チガーヌ)たちが屯していた空地(ゾーヌ)に大学都市が出来あがる以前からあった。路地の右側三軒目がブラックのアトリエだった。真向いのアトリエにはドランが住んでいた。武者小路実篤をドランのところに連れて行った時、訪ねたのはここだった。今は私の友人画家モンタニエが住んでいるが、昔はこの路地にフジタもいた。とにかく大家が住むところである。
久しぶりに会ったブラックはアトリエにある作品を皆引っぱりだして見せ、私の意見を求めた。「僕はなんでも自分の手応えを試してみるんだが、もう一度ふり出しからやってみようと思う」。百号ぐらいの空と雲と畑だけの未完の風景がゴッホの「烏が群れ飛んでいる畑」の絵を連想させる。「どういう風になるものか自分でわからない」。私は彼の感想録に書いていた言葉を思っていた。「感覚(サンス)はものを破形(デフォルメ)させ、精神(エスプリ)が形(フォルム)を生む」――これが創作過程だ。ブラックはこれに忠実な一人だった。その後の彼の作品が、戦前の生彩を欠いた感じがするのも、彼生涯の最後の創作態度から来ているのだろう。この点ではドランの経過に似ているものがある。
その後なお二、三度、私は彼のアトリエを訪ねている。私とは十八も年上なのに、まるで同輩のように気楽に話し合った。私はブラックはまだまだ壮年だと思っていた。亡くなってから思い当ると、八十二歳である。シニャックもドニもボナールもマイヨルもマティスもヴラマンクもドランもルオーも皆この年頃で去って行った。私がフランスで知った先輩作家はもう一人もいない。(スゴンザックただ一人残っている。)
ブラックはアルジャントゥイユ生れだから生粋のパリっ子だが、骨組の頑丈な、背の高い、陽焼けした、漁夫か石工のようで、彫りの深い面長の顔はノルマン人を思わせる。彼も後半生のほとんど半分はノルマンディーの英仏海峡よりの別荘にいた。フランス画家を大西洋系・地中海系と分けるのは漠然とした感じだけのことだが、ブラックはむしろ大西洋系、ブルターニュ、ポン・タヴェン出のゴーギャンに通じるある憂鬱さが彼の作品にもあり、これが晩年のものに一層強く出ていた。彼の素朴さ、これは彼ばかりのものではない。日本の作家のように、構えがあり世間的地位が後ろにひかえているような芸術家に、私はフランスで会ったことがない。いちばん紳士的なマティスでも、まず打たれるのはその率直さだった。ブラックでもドランでもピカソでも皆明けっぱなしだった。余談だが、私がフランスに着いたばかりでテュイルリー協会招待会員に推された時、ともかく礼儀上当時の会長のアマン・ジャンを訪ねた。彼の絵がよかれあしかれ、フランス画壇の長老大家だ。それが小僧の私を汚いアトリエに迎えて、まるで同輩のように話し合う。アンデパンダン会長のシニャックに会った時も同じだった。彼が愛蔵している三十号台のセザンヌの前で、抱き合って感動した。
展覧会場で一度会ったきりで、その後ブラックと私に交渉はなかった。フランスで私はずいぶんいわゆる大家有名人と知り合いはしたが、それで交際することはなかった。これは私の孤独性から来ていよう。戦後ブラックに再会したのも、たぶん日本からなにか依頼された用件のためだったろう。あるいは、それ以前に彼から素描感想集を贈られていたのかもしれない。来てくれというので、はじめて彼のパリのアトリエを訪ねた。
パリの南辺、ポルト・ドルレアンとポルト・ディタリーの間の環状道路(ブルヴァール・エクステリウール)沿いに大学都市(シテ・ユニヴェルシテール)とモンスーリ公園が向い合っている。公園はナポレオン三世時代のイギリス風庭園、それの左傍の道の途中にドゥアニエ通りという路地があり、高級アトリエが十軒ばかり列んでいる。これは公園の向い側の、ジプシー(チガーヌ)たちが屯していた空地(ゾーヌ)に大学都市が出来あがる以前からあった。路地の右側三軒目がブラックのアトリエだった。真向いのアトリエにはドランが住んでいた。武者小路実篤をドランのところに連れて行った時、訪ねたのはここだった。今は私の友人画家モンタニエが住んでいるが、昔はこの路地にフジタもいた。とにかく大家が住むところである。
久しぶりに会ったブラックはアトリエにある作品を皆引っぱりだして見せ、私の意見を求めた。「僕はなんでも自分の手応えを試してみるんだが、もう一度ふり出しからやってみようと思う」。百号ぐらいの空と雲と畑だけの未完の風景がゴッホの「烏が群れ飛んでいる畑」の絵を連想させる。「どういう風になるものか自分でわからない」。私は彼の感想録に書いていた言葉を思っていた。「感覚(サンス)はものを破形(デフォルメ)させ、精神(エスプリ)が形(フォルム)を生む」――これが創作過程だ。ブラックはこれに忠実な一人だった。その後の彼の作品が、戦前の生彩を欠いた感じがするのも、彼生涯の最後の創作態度から来ているのだろう。この点ではドランの経過に似ているものがある。
その後なお二、三度、私は彼のアトリエを訪ねている。私とは十八も年上なのに、まるで同輩のように気楽に話し合った。私はブラックはまだまだ壮年だと思っていた。亡くなってから思い当ると、八十二歳である。シニャックもドニもボナールもマイヨルもマティスもヴラマンクもドランもルオーも皆この年頃で去って行った。私がフランスで知った先輩作家はもう一人もいない。(スゴンザックただ一人残っている。)
一九六三・一〇・三〇
〔高田博厚著作集IIIより〕