ヤスパースは その著「デカルトと哲学」で近代哲学の祖と云われるデカルトを徹底的に批判した。この偉大な十七世紀の哲学者にたいして二十世紀の一大学教師が自分を何様と思っているのかという見方は、多分おおくの人々はしないであろう。現在からみてヤスパース自身も西欧哲学の歴史のなかに名を留める人物であるから、そうしないのではない。デカルト自身が、「良識(ボン・サンス)は万人に最も公平に与えられているものとかんがえられ、その他の能力では甚だしい不公平があっても、この 真と偽とを分かつ能力、判断力に関しては、誰でも自分は充分に備えていると思っており、現に自分が持っているより多くを望んだり他を羨んだりしないのが常である」、と言っている。思想の対決はこの境域でおこなわれるのであり、それが西欧「理性」の伝統であるから、誰でもいかなる思想の巨人にたいしても自分の判断をなしうると見做されている。そういう「理性の雰囲気」のなかで、無名の学者の先哲批判も公認されているのである。既にデカルト自身がそれを実践した。彼の形而上学上の思想を一般にも公開し、意見を募り、自分を最も感心させたのは学者達のものではなく、まったくの一市民のものであったことを述べている。

 わたしはこの欄で言論などまったくしようとはおもっていない。わたし自身がどういう人間か自分にもわかるように刻みたいという動機しか根本的に持っていない。しかしそうするとまた気づくのであるが、上のデカルトにせよヤスパースにせよ、自分の思想の開陳と自分の個的歴史を語ることとが、密接に結びつくことを自覚していた思想家であった。これは、思想が単なるロジックの展開でないかぎり当然のことである。「普遍」をめざす思想は、その担い手である思想家が己れの「歴史的規定性」からそれをめざすがゆえに、「深み」をもつのである。すると、わたしは「自分を彫る」こといがいほんとうはかんがえていないのであるが、それがおのずから、真実な思想表明の土台を築くこととなっており、また 思想そのものの表明も事実的におこなっていることにもなるだろう。これによって、思想(哲学)の伝達は本来論理の展開によってではなく「人間と人間とがともに生き、対話を重ねることによって火花が生じるようになされる」と直感しそれを論文ではなく対話篇という形でともかくも実践したプラトンの理念を、自分との対話と自分が照応し得る相手との対話という楕円運動によってわたしも実践することになるだろう。
 わたし自身が いったい何者であるからかという資格問題は、架空の問題であり それじたい詭弁である。そういう問題が生じるとしたらそれはむしろ当該者の「自己が自己自身に向かう」ことの決断が未だなされていないことを示すのみである。これこそ、「歴史上の偉人にものを言う」ことの真の資格問題がほんらい何処に見出されるべきものかを示す。デカルトもそうして「スコラ」を批判する資格を自分自身にあたえたであろう。デカルトに臨むヤスパースも同様であった。これを為さない者を西郷は「天下の意気地なし」と言う。きみ、ここに「勇気」のほんとうの意味があるのだ。