嘗て植民地帝国主義だった欧州は、自分達の過去を踏襲する現代勢力の台頭に切迫感がない。それなら日本は「我が国および周辺諸国が当面する脅威に積極的に関心を持ってくれなければ 我が国もウクライナ問題に積極的に貢献する気はない」 と水面下でも主張すべきであった。それが東南アジア諸国のためでもあった。ロシアとの関係を犠牲にする価値があったのか。向こうとこちらでは問題の実質的意味が全然違うのは瞭然としている。カイロス・決定的時宜は過ぎてしまい、大きな結果になる。




いまだに〈自己責任百%〉主義者がいるようだが、主観的心情で個人的に通すのは自由だ。そういう意識は実存哲学を通ったぼくは徹底的に知悉している。だから同時に、そういう意識を客観化して他に主張する甚だしい本末転倒も原理的に理解しきっている。思索と慎重さの素養がないから、折角の自己経験を体験主義に転じて混乱させることになる。




問題の諸国は、日本の近代化遺産登録に反対しているように、我が国の歴史の自己評価の自由そのものを否定している。正当な歴史観の自由の否定は 個人の自由そのものの否定を結果する。そういう相手が精神的な真の敵だとわたしは言っている。「人間」と「人間」との関係とは別問題だ。




ひさしぶりにジャン・フルネ指揮のフランク交響曲ニ短調を聴いている。演奏しているのが日本の交響楽団(都響)だということを意識しない。それほどフランス的な魂が現前している(そうぼくは経験している)。鬱陶しいほどのゆたかさだ。「神につうじる鬱蒼たる樹木に蔽われた大街道のよう」と ポール・クローデルの生涯と仕事を評した高田先生の言葉を思い起こす。まさにそのような作品であり、これは「フランス」いがいのどこでもない。雄大でありながら威圧とは無縁で親密である。実質にみちている。




樹木は最大の賢者である。自分の場所から動かないから。専一に自分の地に根をおろす。しかし樹木も想うのであろう。人間は樹木いじょうのことをしているか。空(そら)は樹木にも人間にも等しく遙かだ。その想いに何のちがいがある。

きょうは早くやすもう




報道番組の内容がひどく、手休めに点けると後悔する。占領直前までのフランスもこうだったろうと思わせる。日本にレジスタンス活動ができるか。できなけりゃいけないよね。





フランクの交響曲ときみの五枚目第二曲がぼくのなかでぴったりと重なり合って響いている。きょう彼のこの作品を聴きたくなったのも、結局ぼくは自分の本質に合う、ぼくの歴史のなかで出会った存在に、アルモニー(調和・諧和)を感じる運命にあるからなのだ。この曲ときみの曲が結婚した。これがぼくのきょうでいちばん美しい出来事におもえる。
 ぼくの知らない感覚の秘密にぼくはみちびかれている








アルベール・マルケ「パリ、サン-ルイ島の先端」1928







〔補筆: マルケ作 検索より。 こういう画家が日本であまり鑑賞されないのは残念である。ルオー、マティスらとともにギュスターヴ・モローを師とし、彼らの親友。穏やかな画風で「水の画家」といわれる。フランクと彼女の〈海〉の曲が同時に聴こえてくる 〕










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これは書くつもりではなかったが、彼女の画像を検索して近隣の二国語が書いてあると瞬時に不快と違和感で気分と体調が崩れるので、書かざるをえない気持になった。あの二国語は感覚的にひどい印象だ。おぞましくて人間の言語とは思えないほど醜い。ああいう言語を使っていると人間が正常でないところが出てくるだろうと思った。ぼくのこういう感想事実を記すことが適切かを自問するようなゆとりを感じない。これは事実として書いておきたいと思った。ああいう言語を使う国と彼女が関わるのにはぼくの感情は反対だ。日本のみで活動してほしい。これは理屈ではないぼくの強い感覚と感情だ。本当に不愉快で体が変になる(実際なっている)。書くとすこし落ち着くかと思い感覚感情のままを書いたのだ。この感情は否定できない。(他のアジア諸国語の形体も見知っているが、こういう感情が起こるとは思えない。)
 この感情を推測的に分析することに興味はない。政治的反発の無意識化に還元されないものがある。一度ここでいま書いた。二度書く気はない。関わること自体がぼくにふさわしくない。