『 「現代人が外界の事物をうけ取るやり方はこうなのです、」とわたくしは言った、「現代人はあらゆるものを、なんの連関もない錯乱状態のままで、手当りしだいに掻きあつめてくるのですが、それは、現代人のこころのなかも一種の支離滅裂な錯乱状態を呈していることの証拠にほかなりません。現代人は外界の諸事物に対しても、もはや確乎たる事実としてのそれに向かいあっているわけではなく、従ってもろもろの事物も、もはやそれぞれがただ一個かぎりの独自のものとして人間の眼に映ずることもなくなっています。また現代人はもはや一つの特別な行為を通じて個々の事物に近づくこともしないのです。そうではなくて、こころの内部が支離滅裂な一種の錯乱状態を呈している現代人のところへ、外界の一種の支離滅裂な錯乱状態がうごいて来る、というのが実情です。したがって、がわが身に降りかかりつつあるかは一向に吟味されない。人々は、とにかく何事かが起り来たりつつあるという、そのことだけで満足なのです。そして、このような連関のない錯乱状態のなかへは、どんなことでも、また、どんな人物でも、容易にまぎれ込むことができるのは言うまでもありません。どうしてアドルフ・ヒトラーだけが紛れ込まないことがありましょう。さて、一旦ヒトラーがそこへ紛れ込めば、どのようにして彼がはいり込んだかには気づかれることがなくても、ヒトラーは事実上人間の内部におるわけで、そうなればヒトラーがただ単に人間のこころの中をちょっと通り過ぎるだけでおわるか、或いは彼が人間のこころの中にしっかりと喰いこんで離れないかは、彼アドルフ・ヒトラーの手腕しだいであって、もうわれわれ自身で勝手にどうこうすることのできる問題ではなくなるのです。」 』
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マックス・ピカート「われわれ自身のなかのヒトラー」(Hitler in uns selbst, 1946)より〔8頁、みすず書房〕。


昔日の媒体の段ではないネット社会は その事象感覚と情報伝播力により 聖なるものの毀損とISを生んだ。戯画感覚と破壊兵招集は対極ではなく表裏であると判ぜられる。

まさにマルセルの戯曲「こわれた世界」(Le Monde cassé)が この題名とともに示す世界様相である。

何の内的関連性にも基づかない無理やりな外的接合の醜悪世界にわれわれは住まわされて大方は嬉々として〈生活〉している。これが技術世界のもたらした「こわれた世界」である。どこに「人間の生活」があるか! 美意識の問題と人間存在の問題とは根源的に同一である。



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自国の文化大革命で自国民何千万殺したか統計も明かさず 天安門で自国学生達を戦車で潰し、なお支配地域他民族を虐待し続ける ヒトラードイツ以上の自称大国が、日本民間人にまで公然と精神的圧力をかけはじめたことが きょう報道された。中国共産党に言われて日本人が素直に反省できるはずもない。
 アメブロも、機能悪用のレッテル貼りブログは精神的暴力の迷惑行為として取締り 閉鎖させるべきではないか。


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スピリチュアリスト系の人とどうしても反りが合わない。向うの霊的体験への信頼が強固過ぎて、しかも〈浄化〉だ〈霊格〉だ〈学び〉だという観念を確信的に振り回し過ぎるので、付き合っているとぼくのほうは自分の根源・地盤から引き離される気がして、相手にひじょうに批判的な意識をもつようになってしまう。ぼくにとっては、自分の体験を盾にして他者に断定的もの言いをするのが気にさわってくる。しかし同じ人間なのだから、もっと話し合ってもよいのに、と思うのだが、ぼくの方からすると、相手がそんなに器量がないのに、体験確信的に押してくるのに気分を害し、ぼくの意識を肯定できないのならこの人は未熟だと断ずることになる。相手もぼくも譲らないのだ。どちらかというと向うが拒絶的で開けていないのである。しかも拒絶するのに〈霊的〉理屈をつける、ぼくに問題があるのだと。自分が未熟だから開けない(相手ができない)とは言わない。未熟な判断を体験や用語で押して来る。この齟齬を分析・反省すると相当な展開をしなければならないと感じる。こういうスピリチュアリズムがあまりに隆盛で、みんな満足そうに関わっているのをみると、やはり偽善と問題無視を感じる。ぼくのほうでは、彼等の発想原型はすべて谷口雅春〔彼と僕の誕生日は一日違い。それ以前に森田正馬を読んだように よく読んだ時期がある〕の書いたものに見出されるといつも思っている。彼等の源にかなり通暁した上でのぼくの批判意識なのである。ぼくは図式的断定はしない。そしてぼくのほうが知力と問題指摘力はあるのだ。相手がぼくの問題意識を常に受け入れ得ないので、交わりが挫折するのである。彼等の感覚はぼく自身の感覚として了解し得るところが広範にあるのだが、彼等の精神的諸観念の衒学性をぼくは承認し得ないのである。自分がほんとうに自分らしくなる障碍にしかならない。ぼくが健全なのだと確信している。どうして、相手のは霊的経験・見地だから自分の経験感覚より上だとし 権威をみとめなければならないのか。 彼等は〈体験の体系〉に拘束され 精神を自由に理解できないようであると感じる。実際、彼等の判断の仕方はぼくには相当よく分る。それを克服しなければ 自己との親密も思索の自由も得られない。
 それにしても〈霊的体験者〉は、爪の割れるのは栄養不足ではなく浄化されていないからだなどということを平気で言うが、まったく一方的で独断的である。人間経験の貧困としかおもえない。自分こそ穢れているから霊的体験など被るのだ。その程度の次元の人間だからそういう〈拡張判断〉もする。何も知っていない。「人間」への侮辱だ。



ぼくは過去節でつぎのように言っている: (506)

『 ぼくはそのなかであなたがたゆたうことのできる海のよう なんの心配もいりません

他者を相手にするときは
深く広い海になる

  あなたのために
自分に親密になれない者は 他者にも親密になれない
自分を突き放すことだけはやめること それによってあなたはすべてをうしなうでしょう
ならばどんな他者の評価もあなたの世界に入れないこと
あなたの本質に寄り添う助言だけを容れなさい 』

ぼくの本質はこうだから、ほんとうの懸念は要らない。自分の言葉はぼくにとって聖書の言葉より優る。ぼくがそう感じるのだから皆にとってもそうだろうと思う。感覚は普遍的だから。しかし やさしいということは怒らないということではない。普通にしてても怒ることがありすぎる。いまも、「スピリチュアリズムの諸概念は夜郎自大増幅装置である」 とつぶやいていた。ほんとうにはらがたつ。やさしいから(大事にしたいものがあるから)はらがたつのである。たぶん はらをたてない者のやさしさは偽物だろう。はらをたてるから偽物であるのではない。逆である。俗物にかぎってそういうことで〈人の器を測れる〉と思っている。「スピリチュアリズムの諸概念」もそうして「俗物の夜郎自大増幅装置」になってしまうだろう。さきの798節で引用したヴァレリーの文を思い出してほしい。彼が批判していること以上のことをスピリチュアリズムはやっていない。想定された霊界という世間相手の生き方で何処に魅力がある、とぼくは言いたい。そういうものとは反対の生き方をぼくは上の自分の文でも言っているのだ。


小学五年の時に描いたつもりでいた、葉書の裏に見よう見まねで水彩で描いたパリ風景。学校の夏休み宿題の図工として。板に貼り付けて物入れにした(写真の下部の太い斜線は板の木目)。板の裏を見たら中一と書いてあったから、あれ?と思った。いまとなってはこういうものもぼくの「個性」をしめす愛(いと)おしいものである。





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いままで思いつかなかったのがふしぎだが、こんどぼくが秘蔵している高田先生の直筆原稿を紹介しよう。ヒトラードイツについて書いてある。


 
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 しかし よく人に〈教え〉たがる者がこれだけ世にいるものだ。しかも直接教えないで先ずメールアドレスを教えよとかならず言う。いいかげんに根性を直せ。