ぼくはいま、ひじょうにはっきりと感じるにいたっている。

これは前節末筆からのつづきである。

 そう、あなたの音楽で、ぼくはふたたび自分を見出しました。孤高(これをほんとうに感じさせるひとは稀です)の意味を。そして、あらためて実感したのです。これはみんなに伝えなければならない。

イエスの宗教改革と、プラトンの哲学が、いかに親和的であるかということ。それは、内面中心主義であり、「孤独を通って真理と愛へ」の方向性なのだ。〈主義〉と言ったが、これは選択肢的意味ではほんらいなく、「在るか在らぬか」の選択の意味で、運命的な方向性なのだ。「孤独」を通らねば、愛も、あぶないのである。「孤独」は独立であり、自立であり、内面性の選択なのだ。孤独の反対は、「他律」なのである。「外(そと)へ向かう」ことなのである。そしてこれが「悪魔の原理」なのである。真の愛は、孤独を通らずしてありえない。それいがいは従属であり、裏が憎しみである。そしてこのような従属愛が現実にはほとんどであろう。先日、岡本太郎が、やはり「調和の欺瞞」を言っていた。相互従属の正当化イデオロギー(意識的態度)なのである。〈現実にはほとんど〉と言ったが、日本の経験的現実である。「調和」がイデオロギー化しているから(「感謝」のイデオロギー化)。「服従」の正当化である。悪魔は、服従させようとする外力であり、ベルグソン的には、物質性のほうへ、個体の破壊のほうへ、引っ張ってゆく。意識的生命は、それとは逆の方向へ、個の統合と統一の方向へ、自己実現しようとする努力が本質なのである。「孤高」とはその極点なのである。この方向にしか人間の「神」は見出されない。ここでよく注意すべきは、「生きる」ということが、本質的に二律背反的だということである。一方で内面性と一元性の方向へ高まろうとするが、他方で「外」へ向かうことを宿命とする。「物質への配慮」を生命は手放すことができない。集中と弛緩のリズムがこうして「生」において必然的となる。生きようとするかぎり、誰も、隙の無い瞬間を完璧に持続させることはできない。悪魔は、その隙(外へと意識が向かう瞬間)をのがさず突いて介入し、われわれを倒そうとするのである。その、あまりに不自然な介入タイミングを、ぼくは毎日経験している。とても〈自然〉ではない。じつに思わせぶりな、本質疎遠で俗な、いやらしい印象力を、不可避的な隙を突いて、押し込んでくる。なにか、そういう現象が起こる〈方程式〉にでも、人為的に或る時期に嵌められたように感じる。周囲の力の総掛かりで、それをやられた、そしてその状態がつづいている、という実感である。そういう状況の中で、「薬」による身体破壊もおこなわれたことを、銘記してほしい。ぼくはこれをいま身体不調とたたかいながら書いている。「はっきりと感じるにいたっている」ことを伝えようと。本旨は、悪魔力がはたらいてくる方向をはっきりさせておくことと、それと真逆の、愛とイデアの統一的方向を、いわば、「外力」対「内力」として意識化(自覚化)しておくことにあった。ぼくにとっては重要な書き留めるべきことであった、その明瞭にたっした実感のゆえに。これは、(いつもそうだが)かなり必死で書き留めたのである。


「志が虚を向いている」とは、「孤独」という次元を忘却している、会得していない、ことである。したがって、「孤高」の「高さ」の意味も解らない。これは比較を絶した純粋さの高さであり、何ら比較上のものではない。「孤独」の意味と実感を会得しないすべての〈志〉は虚である。
 〈都会は孤独だ〉というが、(意味が)違う。むしろ、真の孤独がなく、感じられもしないのである(実体の喪失感の孤独なのである)、この、〈比較〉がすべてで、比較における〈高さ〉しか志向できない虚の地において。もちろんぼくは類型的に言っている。













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折々に記しておこう、ぼくの不可解な経験を。東京にいた頃、もうすでに薬害により体が普通でなくなっていた頃、件のマンションは移って他の二階建住居の一階に住んでいたのだが、どうしても外出する用があり、電車で繁華街の目的地へ向かった。家を出た時から変な様子に気づいた。二階がおかしいのは判っていた。その二階から、「彼は外出するようだ。これがひとつのピークだな」、などという〈声〉が聞える。何のことかわからない。大家が住んでいるはずなのだが、大家ではない風だ。家を出て二階を振り返ると、カーテンの端を持ち上げて隙間から見知らぬ男がニヤリとわらいながらじっと見ている。ぞっとした。駅から目的地へ向ったが、電車の内や繁華街の路上でみかける大勢の勤め人の男達のネクタイの様子が、そろいもそろっておかしい。きょうはなにか特別の日なのかとおもってしまったが、ほとんど全員、そろいの、ぼくがいちばん不快になる種類の異様な赤系デザインの、不自然な柄のものを締めている。この広い東京でこんな画一的なことがあるなんて。ぼくの外出先を見越して、その辺り一帯に、〈演出指令〉をとばしたのだろうか。やりすぎだ、無理だ、どんな権力で・・ 社会全体がぼくにたいして〈包囲網〉を築いて顕示してみせたのか、という受け入れ難い気持に襲われてしまった。書き割りの劇場空間に投げ入れられたような、夢の中にいるような気持だ。信じ難い事象は、出発当初の乗り換え駅の、車窓から見たプラットホームの広告交換の様子からだった。駅係員達が、止っている電車の中から見ているちょうどぼくの目の前で、妙な特大広告板を向い側のホームに運び込んで交換した。このタイミングは一体何なのだ。記憶している限りで書くが、「憎い敵の心臓に一撃、大募集、手段は何でも。のこぎり、ペンチ、・・・」というような文面の、およそ健全穏和とは言えないような、ことさら物騒な違和感を与えるような異様なものなのだ。乗っていた電車はすぐ出発したが、異様さが品を変えて待っていた。ここでやめる。他日、もっと信じがたい事もあるのだが、別の機会に。吐き気がする。グロテスク、怪奇とはこのことだ。作りものが現実になった経験だ。しかも生産的なものは何もない。大仕掛けの、破壊のための破壊だ。