ある時友はしみじみとして言ったことがあった。
「でもね、女はね、単純な、ごく平凡な、そうして明るい幸福がほしいのよ……」
私は不意に私の十年の夫婦生活を想到した。私はそれを知りすぎる程識っていた。「妻に着物一つも買ってやれなかった……」。忠実であった妻に感謝すると共に、私は私の結婚に常に悔いを感じた。妻は人生とか生活とかが遂に何であるかを知ったであろう。しかしそれはただひたぶるに私に忠実であったが為だった。そうして私は、どのように妻が私に忠実である事を知っても、その為に人生や生活を労苦としてどうして彼女に教訓し強いられよう。そうしてこの悔いの感情は自分の妻に伝うべくもないものだった。
また私は友にこう訊いたことがあった。
「あなたはまだ結婚しないのですか……?」
彼女は微笑した。そうして暫くして思いきったように言った。
「自分でそれを望む時が来たら、病気で明日死ぬ体と判っていても、私は結婚するでしょうよ……」
私はそこにフランスの女の熱情と節操というものを眼のあたりにしたような気がした。上辺(うわべ)はでたらめで放縦らしく見えるフランスの女の魂の堅さというようなものを感じた。そうしてこの友と私との友情が決して埒(らち)を越えないであろうと深く感じた。
いろんな事で多忙な私はよくパリへ出た。昼は彫刻の仕事をするので、多くの友に会いに行き、招かれるのは夜が多かった。自分の家へ帰るのは大体終電車の時刻だった。そういう留守の時でもこの友は気が向くと勝手に来た。そうして話して夜を明かすことさえあった。靄の中に菜園や向うの丘がぼんやり明けて行くのを眺めながらうとうとしていた。
ある日もまた夜おそく帰って来て、下の部屋の明りをつけると、私は仕事台の上に一枚の紙片を見つけた。
「六時から来ています。――独りで御飯をたべた。――ながいこと待っていた。――時計がないけど、もう遅い! 寝ます――お休みなさい――あなたは、『六時か七時頃帰る』と書き残しておいたけど、それは夕方の六時? それとも朝の六時?……犬が遠吠えする、外は真暗(まっくら)で寒い――もう寝ます! では明日……」 と書いてあった。二階へ上って灯をつけると、彼女は私の寝台にすやすや寝ていた。その白く丸い額にそっとさわってみて、私は何か神聖なものに触れた気がした。「何という信頼深さだろう……」。静かな感動がこみ上げて来た。そうして物音をたてないようにして、机に倚って、夜明けを待ちながら書き物をした。》
〔著作集第二巻より〕
先生はほんとうに奥さんを愛している。二度くりかえした〈悔い〉のことばの意味をただしく理解(了解)した人が何人いるだろうか。杞憂であるとよい。人間の神聖さへの感情。このひとの底にあるのはこれである。
「でもね、女はね、単純な、ごく平凡な、そうして明るい幸福がほしいのよ……」
私は不意に私の十年の夫婦生活を想到した。私はそれを知りすぎる程識っていた。「妻に着物一つも買ってやれなかった……」。忠実であった妻に感謝すると共に、私は私の結婚に常に悔いを感じた。妻は人生とか生活とかが遂に何であるかを知ったであろう。しかしそれはただひたぶるに私に忠実であったが為だった。そうして私は、どのように妻が私に忠実である事を知っても、その為に人生や生活を労苦としてどうして彼女に教訓し強いられよう。そうしてこの悔いの感情は自分の妻に伝うべくもないものだった。
また私は友にこう訊いたことがあった。
「あなたはまだ結婚しないのですか……?」
彼女は微笑した。そうして暫くして思いきったように言った。
「自分でそれを望む時が来たら、病気で明日死ぬ体と判っていても、私は結婚するでしょうよ……」
私はそこにフランスの女の熱情と節操というものを眼のあたりにしたような気がした。上辺(うわべ)はでたらめで放縦らしく見えるフランスの女の魂の堅さというようなものを感じた。そうしてこの友と私との友情が決して埒(らち)を越えないであろうと深く感じた。
いろんな事で多忙な私はよくパリへ出た。昼は彫刻の仕事をするので、多くの友に会いに行き、招かれるのは夜が多かった。自分の家へ帰るのは大体終電車の時刻だった。そういう留守の時でもこの友は気が向くと勝手に来た。そうして話して夜を明かすことさえあった。靄の中に菜園や向うの丘がぼんやり明けて行くのを眺めながらうとうとしていた。
ある日もまた夜おそく帰って来て、下の部屋の明りをつけると、私は仕事台の上に一枚の紙片を見つけた。
「六時から来ています。――独りで御飯をたべた。――ながいこと待っていた。――時計がないけど、もう遅い! 寝ます――お休みなさい――あなたは、『六時か七時頃帰る』と書き残しておいたけど、それは夕方の六時? それとも朝の六時?……犬が遠吠えする、外は真暗(まっくら)で寒い――もう寝ます! では明日……」 と書いてあった。二階へ上って灯をつけると、彼女は私の寝台にすやすや寝ていた。その白く丸い額にそっとさわってみて、私は何か神聖なものに触れた気がした。「何という信頼深さだろう……」。静かな感動がこみ上げて来た。そうして物音をたてないようにして、机に倚って、夜明けを待ちながら書き物をした。》
―『セルパン』一九三二・十二月号―
〔著作集第二巻より〕
先生はほんとうに奥さんを愛している。二度くりかえした〈悔い〉のことばの意味をただしく理解(了解)した人が何人いるだろうか。杞憂であるとよい。人間の神聖さへの感情。このひとの底にあるのはこれである。