「私も解ってよ、あなたの言う事は。でもね、お聴きなさい、それはあなたの人生なり過去の生活があなたに教訓したものよ。それは多分あなたが置かれた位置なのよ。それは素晴しいかも知れないわ。例えばそういうあなたを人が見たら、あなたのその考えはあなた個人のものでなくて、『人生』のものとして価値あるでしょうよ、けれども何という絶望した人だろう! ね、お聴きなさい、それにもかかわらず、私達の日常は、一日一日の生活は、まるでそれに係らないかのように、平凡に、そう、ごたごたしたいろんな事柄を以て流れて行くんですよ。そうしてその中で私達はごくあたりまえに喜びもし悲しみもしているのよ。一日一日をそれなりに味わって行ってるんじゃありませんか? ね、例えば今あなたは私の写真をあなたの奥さんに送ったと言った。きっとそこであなたはあなたの信頼と熱情を誇張してるんだわ……あなたの諦めがあなたに何かの自負を与えないとどうして言えます? もっと、人間には隙があるし、無力な時があるかも知れない。そこへ行けば、私達は陥ち込んでしまうより他ない瞬間が沢山ある。そこで私達が出来ることは、その前に私達が用心深く慎み深くあるという事だけよ。ね、御免なさい、あなたと私にも、また奥さんにも隙がある時はあるんですよ。御免なさい……何故私はあなたに会いに来るんだろう? そうして何故あなたは私を喜んで迎えてくれるんだろう? 私達愛しているなんて一言も言やしなくてよ。じゃ好きじゃない? 嘘、嘘、嘘、多分私達は一日一日がそれでいくらか楽しくなることを知っているんだわ。でもそれは一体何? 私達がこうして何事もない友達なのは、あなたに奥さんがあるからじゃなくてよ。私達のちっとばかりの智慧が私達を支えているからだけのことよ。道徳なんかじゃありやしない……私達の間が不自然だと思うような時が来たら、私達がどうなるか知ってて? ね、アデュウ〔永遠にさよなら〕か、それとも……私達には考えられようもない、自分の愛している奥さんとこんなにも別れて暮していて、それなら今のあなたの毎日の生活の中で、何が自然なの? どっちが自然なの? あなたは何かに絶望している。しかもあなたの熱情はそこから出るのね。おお! ド・サーブル・ムーヴァン〔動く砂:蟻地獄〕! 私には一日一日を素直に生きて行く事が私の諦(あきら)め。私は一つの塵(ちり)。あなたは何時も見ている。際限もないところを! 一体どこを? ほら、何て顔をするの? ね、正直に言ってよ。あなた仕事をする時、どんな目付をしてるか、自分で知ってて? 仕事をしながら、あなたが私を見る。その時のぞき込めるのは、私なのよ、私の方なのよ、あなたの中を……その時、私はあなたを信頼しきるの……でも、何て不幸な人だろうと思うわ。何故ならあの時より他に、どんなものもあなたに楽しみと幸福を持って来はしないんだもの……」
 私はこの時、この自分と同い齢の友が十も二十も年上の女のように思えた。そうしてただ黙って彼女の顔を見つめていた。



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道徳教育より、こういう話を読ませかんがえさせればよい。もっと正確にいうと、己がこころに沈潜させるがよい。恩恵を受けたのは、これを読んでいる読者にもまして、筆写することによって再読したわたし自身である。これを原稿に書いている先生自身のこころのリトムにまで降りて、近づいて、ゆくことができた。絶望しつつ無限を求める男の〈誇張〉、それを指摘する、われわれ日本とはちがう人間伝統から生きる仏人女性の思惟の緻密さと存在性。日本の〈人間伝統〉はまるではなしにならない幼稚さ、観念性が致命的で、いまもつづいている〔これから先生は脱しようとした〕。すくなくとも儒教・仏教の容喙によって。わたしの勝手な印象ということで結構であるが、ここに書き留めておく。男性性と女性性の永遠の普遍的な対比がここにあるかもしれぬ。 先生が幸福な眼差をしているのは仕事しているときだけ、とすでにここで言われている。全き信頼をおぼえさせる純粋性、渡仏以前から、そして一生、これはかわらずたしかめられたであろう。それをぼくも知っている、感じる。晩年もの年齢を超えた透明な無垢純真さ、かなしいまでのきよらかさの光をごらんになるとよい。


 
 





ふしぎなものだな、この節を制作して思わずなみだぐんでいるぼくの内にいま通奏低音のように、くっきりと無限に反復されて鳴り止まないのは先日紹介した裕美さんの楽曲の十番目のあの旋律だ。聴いたそのままの演奏が再現されつづけている。おもわず庭にでてみた。梅も姫椿も満開に咲いている。こころに完全に調和しあうものが先生の世界と裕美さんの世界にはあるのだ。これがぼくのひとの愛しかたである