いま、高田先生の実娘田村和子氏の「幸福のかたち」という著を繰っている。こういう著があることは最近知って取り寄せたのである。父高田先生の、実話と思ってよいのであろう話がたくさん出てきて、先生自身が著作のなかで述べている自伝を外の者からみた叙述が多くあり、あああの話かと思うものが沢山でてくる。正直言って、先生の叙述とはことなり、書く者に品格も愛情も尊敬も感じられない。これが先生の〈客観的〉な像と見做されるならとんでもないことである。これは先生の〈真実〉を示す類のものではない。〈事実〉と〈真実〉には位相上大きな差異がある。ぼくは和子氏のこういう著をいままで読まなくてよかったと思った。先生自身の自己観をよく了解しえてから、ようやくこの著をとったことは順序としてよかった。この著には精神魂的なものは何もない。いまぼくは、きのうなら寝ている時間に書いている。昼は読書をしたいから。これを書いているいま、裕美さんのきよらかな音楽がながれている。ぼくも裕美さんも、本性が純潔で清潔なことではまったく同じだ、彼女の音楽を聴き、ぼくの文章を読んでいればわかる。先生の本質もそうなのだ。それを認め尊敬できないなら先生は不幸だったろう。この同一性は外見の問題ではない。もう寝ようとおもう。音楽も聴かずに集中すべきことがらではこれはなかった。裕美さんはぼくの最良の純粋な友である。

 福音書のマリアとマルタの話を思い出す。和子氏の特徴は実生活的マルタの立場であろう。イエスと心が通じあったのは、イエスに専ら傾聴し本質理解したマリアであった。いまぼくはこの寓話の意味深長さにきづく。何故男が妻以外の女性を屡々求める気持になるか。マルティネもそうだった。

〔マリアとマルタの対比は、形而上的親密性の哲学者ガブリエル・マルセルの創作戯曲のなかでも何度もかたちをかえて描かれている人間関係問題であることが思い出される。〕


ルカによる福音書 第十章 三八-四二(日本聖書協会訳):
 一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言(みことば)に聞き入っていた。ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。

ぼくはこの話がたいへん好きである。こころある多くの人々が好きであろう。この「一つ」とはぼくの言葉で言えば「教養」である。学問もマルタにする。学問と教養とはちがう。