わたしの意志の根源的義務と感ずるものは、愛することと怒ることである。これは瞬間毎の意志の発動なしにはない。わたしは忠実なアランの弟子である。


フランスは意志の国である。デカルトの国が単に感性や感情の国であるはずがない。常に意志によって感性・感情は惹起される。あるいは、これを持続的ならしめるのは意志の力である。フランス文化・思想でこうして築かれなかったものはない。あるドイツ哲学研究者は、〈フランスはラテン的感情の国だからそれは古川さん独自の捉え方でしょう〉と平気で応じた。井の中の蛙という言葉さえ出ない。おどろくなかれこれが日本学問研究者のありふれた実態である。


ヴァレリーのような知性人でも生身の人間として、混乱し困難な状況のなかで自分を律しながら創作創造をしている。かれが文芸を訓練とみなしたのは、いかなる感性活動でも、自律的に自分に課すことなしには創造の一歩も進めないことの痛感にもとづいてもいるのだ。〈はじめに行為ありき〉とゲーテのファウストもヨハネ伝冒頭の〈ことば〉の意味を解した。わたしがこの節を「雑記練習あるいは真言」と題したのもかりそめではない。書くことからすべてははじまる。そこから真の形がしだいに出てくる。行為なくして真理(思想)は生れない。思想は自らに強制する判断の積み重ねなのだ。この自己強制は行為から生れる。わたしは自己強制はしていないと言ったが、その意味は、〈天才とは一%の気づきと九十九%の努力である〉というエジソンの言と同じである。彼は自分に発明への努力を強制したのではない。わずかの閃きがあればそれを形にしようとする努力は〈まったく自然な自己強制〉であり、どんな創造的努力も、この〈自然的-必然的〉な、〈内発的〉な自己強制である。だから、わたしは諸君に言う、はやく外発的な学校勉強は卒業しなさい、それは創造でも学問でもない、と。


Il faut se plaire à soi-même plutôt que de plaire à d'autres.
他者に気に入られるより自分自身に気に入られなくてはならない。


書くのは、自分のかんがえを自分にとってはっきりさせるために書くのだ。この自分にとっての手ごたえを感じよろこばないならば、自分にとってあまり意味はなく、それは創造ではない。自存している意味ある存在をつくるのが創造であり、そのとき、文章も音楽も彫刻も〈存在するイデー〉なのだ。イデー(思想)は〈存在〉するものである。本来、創造とは、存在するものを造ることである。さらに反省の一歩をすすめて、このような「存在する思想」いじょうに、それじたいで説得力をもつ思想があるであろうか。その思想が「存在している」と認知すること自体が、その思想の静かな真の勝利なのである。主張や説得など要らず、存在することに徹すればよい。真の芸術の価値はそこにあり、思想もそれに倣えばよい。それは科学的真理と同質の堅固さを帯びうるであろう。芸術、思想、科学が、本質において同一である、「もの」でありうる、という観念が、これらを異次元化するドイツとはことなり、フランスにはあるのである。芸術や科学がそうであるように、思想もみずからのうちで反省探究をくりかえし、緻密に分化展開して堅固な存在性を獲得しなければならない。われわれが歴史上にみる西欧の偉大な諸思想はすべてそれなのである。しかも芸術や科学がそうであるように、常に可能性に開けた本質をもつ。真の思想の本質は〈主義〉とならぬことである。〈発信〉を最初から企図している思想などどこにもない。「もの」に至ることがいかに時間をかけた緻密な蓄積の労を要するかを知っているのである。自分に閉じ籠りなさい。思想が安易に〈発信〉できるとおもっているのは思想修練のない日本人と、外国の無教養なシンガーソングライターぐらいだ。沈黙して在る「もの」になるに至った「存在する思想」になんとしてもかなわないのである。


〔〈宇宙宗教〉はまったくぼくの欄思想の圏外にある。圏外にすらない。ぼくの判断は察しがつくだろう。天使ではなく宇宙人が権威なだけだ。スピリチュアリズムよりもっと人を浅薄傲慢にし、全体意志の傀儡にしようとする。〈怒る者は宇宙から排除される〉という言表から、悪の傀儡であると判る。愛と理性ある者のみが怒るのだ。〕

さいごにつまらんことを話題にした(〔 〕内)のでお口直しの気休めていどだが、日本ではパスカルや実存思想を話題にするときデカルトをヒステリックあるいはステレオタイプに否定するのは、安直な情緒主義を、青年期ならまだしも、一生引きずっている学者が多いからで、思索自体の底の浅さを示している。これにもぼくはじつはずっと暗澹とした気持をもっている。そのていどではじつはヤスパースやマルセルなどもほんとうに解り自分のものにできる素質はのぞめないのですよ。思索の内的転換が必要なのだが、ぼくがいくら指摘しても目醒める素質もないから、もう誰も哲学仲間もいない。相手にしているとこちらの調子がくずれるし。
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判断を下すことはひとつの強烈な問いを発することである。独断という言葉は負のイメージであるが、独りで断ずることである。独断には無責任なものと、みずから責任を負う覚悟のぎりぎりの自己態度決定とがある。わたしは、判断とは本来後者の意味での独断に近いものだと思っている。いわば己れの全人格を懸けた実存的決断であるべきだと思う。わたしはいつもそうしている。だからそれはいつも魂の熱烈な告白でもある。芸術行為に近い。己れの魂をぶつけた問いかけである。だから応じる者も同様な真剣な態度であるべきだ。単なる想定された〈客観性〉に依るものなど、わたしの容赦ない批判とともに叩き潰しにあうだろう。こちらは命を懸けているのだ。想定は想像空想と断ぜられる。そのたぐいによるものは中傷と名誉毀損に等しい(しかもわたしだけのことならまだしも・・久しぶりに怒りを越えて憎悪をおぼえた)。わたしはそういう態度をその想定もろともに殺す。身に覚えのある者はわかろう。