さて、わたしすこし引っ掛っていることがあるので申したいと思います。517節で、シベリウスのピアノ曲「樅の木」を舘野泉さんが弾いた際の次の評をわたしはネットからそのまま引用して載せました。西洋の人です:
《 An intimacy without any fuss... Perfect expression, reserved but sincere. Magnificent 》 「どんな空騒ぎとも無縁な親密さ。完璧な表現、内気だが真摯な。すばらしい」。
この例だけではないのですが、西洋人らしい聴者の評(コメント)には、短い文章のなかに精緻な内容が盛り込まれていることが多く、日本人のコメントにはこの種のものが皆無なのが、わたしが引っ掛っていることなのです。あなたにたいしても、《 forget your worries and give me your smile 》 「心配事を忘れてあなたの笑顔を見せてください」(すでに言及しましたが)、という率直ですが好意からの評があったことに触れましたが、舘野氏に関する場合も、向こうの人は、人間とその表現を実に注意深く感知し、的確に言葉で示すこと、事象に即した分析的指摘に長じています。はっきり申してわたしは、人間力に差があると思います。上掲の文が書けるには、心の籠った演奏と虚勢(力だけ込める)演奏とを判別し、両者が相容れないことの経験と認識(見識)が必要ですし、また、完璧な演奏がそれだけでは人間的誠実さではなく、却って前者は後者を排除することが多いという知見を前提します。向こうの人はただ直接的あるいは表面的に感慨するに終らないのです。そして分析的感想がみごとに直接感覚と合致し、この感覚を説明し理解しているのです。真の人間尊重と人間探求の蓄積がなければこういう注意力は働きません。わたしが気に掛ること、それは、やはりこの人間力の差は我々ひとりひとりの人間(自己)修練によって埋めなければならないな、ということです。飛躍するようですが、嘗てナチスドイツ軍がパリを占領した日にも、やはり警官の短銃自殺などはあったようなのですが、映画館は(多分いつものように)観客であふれていました。彼等はやはりいつものように挨拶し合い「よい晩を」と言い合ったことでしょう。ほかにも、例えばフランス人も馬鹿な真似を演出的にやります。しかし日本人のようにたとえ演出上でも下卑た馬鹿自体になって不愉快にさせることはありません。意識の秩序と自己保持は雲泥の差どころではありません。ドイツ人やイギリス人になるともう醜です。フランスはさすが芸術感覚の国であることは突出しています。その自尊心も宜なるかなです。いまの場合そこまでゆきません。西洋人のしっかりしたところには倣わなくてはならないということです。