好かれるか好かれないかなど問題ではない。自分が好いていればよい。それが愛のすべてであって、すこしも自分のことをかんがえていない(「関係」における自分へ意識が向かわない)。 関係における自分をかんがえるなんてほんとうにばかばかしい。自分のことは自分で納得しておいて、そのうえで相手にたいして、相手のためになると自分が判断することを自分の権閾内でやればよい。 それに対し、感謝はいつも自分のことを意識せずにはいない(「関係」における自分の意識〈自分に・・してくれて〉から発する)から、本質においてエゴイズムである。 諸君はまだ目が覚めないか。
ほんとうに嫌いだったら、嫌われるかも知れないようなことを直接やるものか!
ね、ようく気づいてごらん、この世界だって感謝感謝と言うわりにはすこしも真剣さというものは通用していないから。
この世界もだいたいは、世間受けする「言葉」から思想を展開している。そういう「思想」はいかなる思想でもない。
人は山に登るのが好きだな。本来、危険を承知で覚悟をもって登るのが山だ。広告による登山勧誘はこのことを忘れさせる。それで御客様感謝だが、社会でいう感謝はすべてこういう性格だ。
「正論」を言えばよいというものではない。人間全体におけるその「正論」の位置づけが重要だ。その感覚なしに突っ走るのであればただの子供だ。礼儀を知らぬそういう手合を相手にしない。自分を何様と思っている。〔日本の保守にはまだまだ全人間的教養が足らない。岡崎久彦さんの品格を学ぶべし。〕
ブッダの言葉も岩波文庫に出ているものはみな読んで、愛読書でもあったので読み方・味わい方・生かし方は知っているから、心配しなくてよいよ。僕のいまの境位からすると、精神衛生論だね(ヤスパースも同じような評価をしている)。「人間」というのはそこを突破したところから始まっているんだ。
ぼくがいまの状態でどれだけ苦心して真剣に書いているか! この書いたものでぼくの真剣な本質がわからなければ、他のどこにぼくを探してもむだである。極端な話、たとえ殺人をやってもそういうところにぼくの本質は無い。 書いている真剣さ以上にぼくが真剣になっているところはない。
ギリシャ・サントリーニ島の海
クロード・ローランの画の原風景が地中海に存在したことを知った。